就職するとオタク趣味から遠ざかっていくという言説を最近痛感しています。
知己のオタクたちとの会話では、話題の中心は大体2010年〜2014年頃のアニメです。ちょうどみんな大学生だった頃の作品ですね。
悲しいことに最近の作品はほとんど話題に上りません。
オタクから足を洗ったわけではないのですが、各自の視聴本数が激減しているせいで、全員が見ている=共通の話題になる作品が無いのです。

社畜がどんどんオタク趣味から離れていく理由は、いろいろと考察されています。
直接的な原因は人それぞれなのでしょうが、その原因に共通する一般的な要因は何らか存在すると思います。 
最近読んだ本の中に一つヒントを見つけました。


 

方向性の違い ー記憶、観察力、想像力ー

登場人物は作家の空想の産物であり、読者の空想の産物でもある。文学上の登場人物は、この二つの強い原動力によって造られている。作家が記憶や観察力、想像力を使ってある人物を発明し、読者がーー集合としての読者ではなく、本を読むここの読者のことだーー自分自身の記憶、観察力、想像力を使って再発明するわけだ。

トーマス・C・フォスター『大学教授のように小説を読む方法 増補新版』白水社 2019年

作品の登場人物は、作者の記述した文章を、読者が自らの知見を使って再発明、つまり解釈して成立するわけです。
ということは、読者の知見が衰えれば、登場人物をうまく解釈できなくなり、作品への魅力を感じられなくなるのです。

僕は、オタク作品の鑑賞に役立っていた知見が労働によって上書きされ失われていくせいで、どんどんオタク作品が楽しめなくなると考えています。

労働を通して得られる知見、つまり労働者として適応するために必要な知見は、大半のオタク作品とは無関係です。
特に恋愛もの、青春もの、女の子がたくさん出てくるような作品とは無縁です。
※福本伸行先生の作品のような人間の暗部を描いた作品は例外です。

労働すればするほど、労働者としての知見を刷り込まれ、元々持っていた知見を忘れていきます。
労働者の世界ではそれを「成長」と呼んで持て囃します。
しかしそれは同時に、オタクとしての「衰退」に他ならないのです。

独身よりも所帯持ちの方がオタクを続けやすい?

僕の周辺だけかもしれませんが、僕のような独身者よりも、家族持ちの方がオタク活動に今も熱心です。

家庭持ちの方が、人生に占める労働の割合が小さいです。
労働者的な知見に塗りつぶされることなく、代わりに親としての知見が得られます。
こっちの方がずっとオタク先品と親和性があります。
そのため、オタク作品を楽しむ能力が損なわれないのだろうと思います。

アラサーからのオタクの心構え

同書の記述を読んで、僕は光明を授かりました。
これまでずっと、オタク趣味から遠ざかってしまうのは華麗による体力の衰えが主要因で、対策しようのない宿命だと思っていたからです。

これからもオタク趣味を楽しみ続けていくには、読者としての記憶、観察力、想像力を意図的に養っていけばいいのです。

従来のように漫然と摂取しているだけでは衰えていく一方ですが、これからは頭を使っていくのです。
まずは量よりも質を重視して、成長につながる摂取方法を確立していきたいと思います。

労働者として成長していく一方で、趣味が楽しめなくなる現象は、オタク趣味に限った話ではありません。
そのとき、疑問を抱きながらも趣味をだらだら続けるのではなく、一度棚卸しをしてみるのも良いのかもしれません。 


趣味が楽しめなくなってきたのなら、ある意味労働への適応が進んでいるとも考えられます。
(強いストレスのために精神が変調をきたしている可能性もあり、一概には言えませんが)
ひたすら労働に人生を捧げるという人生も、本人が幸せなら僕はありだと思います。
無理に趣味を続けるより、自分のことを改めて考えてみるべきでしょう。