役所には毎日、窮状を訴えにくる方々が押し寄せます。
その中身は様々で、「事実は小説よりも奇なり」という諺を実感させられます。

感情の赴くままに語られる窮状を一通り聞いて、役に立ちそうな制度や施策を紹介することになりますが、解決に至るケースは極々稀です。
そもそも既存の仕組みで解決できるのであれば、わざわざ役所に来る必要はありません。
現状の行政サービスでは救われないからこそ、役所まで足を運んで、窮状を訴えるのです。

特に県庁の本課だと、この傾向が強いです。
通常の手続きを行う窓口部署(市町村役場や県出先事務所)では解決できなかったために、藁をもすがる思いでやって来る方がとても多いです。

通常の手続きではどうしようもないということは、ルール上どうしようもありません。
結果として、窮状解消は叶わず、時には門前払いに近い形で退けることになります。

対応にあたる職員は、気まずい思いをしつつもお断りすることになります。
どんなに感情をぶつけられようとも、心変わりしたり、結論を変えてはいけません。
 
情に流されてルールを歪めたら、目の前の一人は得をしますが、そのほかの全住民が相対的に損をします。
極端な言い方をすれば、目の前の一人のためにほか全員を犠牲にする、独裁を許すことになります。
これは不正行為です。規定違反にとどまらず、住民全員に対する裏切りであり、背反行為です。

・・・というロジックを頭では理解していても、実施に悲哀や憤懣をぶつけられると、揺さぶられてしまうのが人間の宿命です。
感情に押されて「本来役所は住民のためにある存在なのに、どうして目の前の一人を見捨てなければいけないのか」と思い悩む方も多数いることでしょう。
このジレンマに悩まされた結果、公務員を辞する方もいます。

公務員として働き続けるには、なんらかの形で割り切るしかありません。
そうしないとメンタルが持ちません。
今回紹介する『反共感論』は、そんな割り切りのヒントになる一冊です。


<p.11>
本書で私は、共感と呼ぼうが呼ぶまいが、他者が感じていると思しきことを自分でも感じる行為が、思いやりがあること、親切であること、そしてとりわけ善き人であることとは異なるという見方を極めていく。道徳的観点からすれば、共感はないに越したことはない。

<p.17>
共感とは、スポットライトのごとく今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。だから私たちは身内を優先して気づかうのだ。その一方、共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるよう誘導し、共感の対象にならない人々、なり得ない人々の苦痛に対して盲目にする。つまり共感は偏向しており、郷党性や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する。隠して暴力の引き金になる。身内に対する共感は、戦争の肯定、他者に向けられた残虐性の触発などの強力な誘因になる。人間関係を損ない、人間関係を損ない、心を消耗させ、親切心や愛情を減退させる。

反共感論 社会はいかに判断を誤るか
ポール・ブルーム著 高橋洋訳 2018年2月 白揚社

世間的には、「もっと共感が必要だ」と言う論調が主流です。
本書はこの流れに真っ向から反対します。
むしろ共感のせいで、トータルでは不利益が生じていると主張し、その根拠を説明していきます。

それなりに年次を経た公務員であれば、首肯できる内容では?
そして、上記のように考えれば、住民対応時のジレンマが和らぐのではないでしょうか?


公務員志望者の方にも一読をお勧めします。
国家であれ地方であれ、姿の見えない「多数者」の福利向上のため、目の前にいる個人を見捨てざるをえない場面が必ずあります。

本書は、極めて冷静に、このような判断を正当化します。
本書を読んでも納得できない、「困っている人がいるのであれば助けなければいけない」と思うのであれば、残念ながら公務員は向いていません。