公務員は頻繁に「頭がおかしい」と揶揄されます。
 
住民は電話越しでも対面でも軽々と放ってきますし、マスコミによる公務員バッシングの中でも頻出表現です。

インターネット上では「公務員になるような人間はもともと頭がおかしいのか、公務員として働く過程で頭がおかしくなるのか」みたいなニワトリvsタマゴ論争も繰り広げられています。
(個人的には両方とも存在すると思います。そして両者は「おかしさ」の性質が違います。)

一方、公務員側が他者を「頭がおかしい」と思うケースもしばしばあります。
住民、マスコミ、議員といった役所外の人間はもちろんのこと、味方のはずの上司・部下・同僚ですら時折「頭がおかしいのでは?」と感じてしまうものです。
地方公務員の場合は、中央省庁を動かしている官僚に対して「頭のおかしさ」を感じるケースもあるでしょう。

自分にとって不都合な状況に陥ったとき、その原因を他者に求め、他者に責任をなすりつけると、気分が楽になります。
特に「他人の人格」に原因があると決めつけて、情状酌量の余地なしと断じてしまうと、自分の非が一切なくなり、感情的にもスッキリします。

ただ、こういう整理法は憂さ晴らしにはぴったりですが、根本的な事態の解決に至るとは限りません。
一方的に責任を押し付けられ、「人格に問題がある」と糾弾される側にとっては、当然ながら反発したくなります。
こうして敵対的対立構造が出来上がってしまうと、どんどん事態がこじれていって、解決が遠のいていきかねません。

「頭がおかしい」と判断する前に、情報の非対称性を疑ったほうがいいと思っています。

自分と相手の知識水準は異なる

「情報の非対称性」という言葉自体は公務員試験でも頻出のワードで、聞き覚えのある方も多いでしょう。

ここでいう「情報の非対称性」とは、以下のような状況を指します。

  • 自分の判断の根拠となっている「重大情報」を、相手は持っていない または
  • 相手の判断の根拠となっている「重大情報」を、自分は持っていない

持っている情報が異なるのであれば、異なる判断を下して当然です。
もし相手に自分と同じだけの情報が備わっていたら、自分と同じ判断を下すかもしれません。
この可能性を否定できないうちは、「頭おかしい」とは言えません。

同じ情報を持っているのに異なる判断を下すのであれば、相手と自分は判断基準が異なるわけで、「頭おかしい」認定も可能になります。

インターネットが普及したおかげで「情報の非対称性」が解消されたかのように思っている方もけっこういると思いますが、実際はまだまだ解消されていないと僕は思っています。
 
「情報の非対称性」の存在を忘れているのか無視しているのか、いずれにせよ
  • 「自分も知っていることは相手も当然知っているはずだ」 →相手の無知を考慮しない
  • 「相手が持っている情報は全て自分も持っているはずだ」 →自分の無知を考慮しない
こういう思い込みのせいで不必要にキレている方が多いように思います。
苦情対応していると本当によくあるケースです。


お互いを深く知らずにキレ合う役所と住民

地方公務員と住民という関係では、この「情報の非対称性」が特に生じやすいと思っています。

地方公務員(というより役所組織)は、大事な情報ほど隠したがります。
重大な政策判断ほど対外的に公表できないアレな理由で下されていて、下っ端の職員たちは真の理由を隠すための「表向きの理由」作りに奔走するものです。
さらに最近は個人情報保護にも気を遣わねばならず、何事も迂闊に公表できません。

些細な案件であっても、施策の背景を知らないせいでキレている人によく遭遇します。
「なぜこの施策が実施されているのか」という理由や経緯を知らずに「無駄だ!」と怒っていたり、法的規制を知らずに「なぜ〇〇しないのだ!」と騒ぎ立てたり……

そういう方々から苦情をいただいた場合には、順序立てて背景を説明します。
「最初からそう言えよ!」と捨て台詞を吐かれれば幸運なほうで、「住民にはっきり伝えない役所の広報体制が悪い!」という新たなトピックへと延焼して対応が長引いてしまうパターンもよくあります。

「頭おかしい」認定する前に…… 

冒頭でも触れましたが、公務員は日常的に「頭おかしい」と叱責されます。

罵声を浴びせられる身としては、即座に相手を危険人物認定したい誘惑に駆られるものです。
 
しかし、そう判断する前に、「そもそも必要な情報を持っていなかっただけで相手の人格に問題は無い(はず)」と一呼吸置くことが大事だと思います。

相手を「頭おかしい」認定したところで、事態が好転するとは限りません。
実利を得るためには、軽率に「頭おかしい」認定するのではなく、どうして差異が生じているのかを落ち着いて考えてみるほうが良いと思います。

そもそも「頭がおかしい」という評価自体、もっと細分化して考えるべきだと思います。
判断に至るまでは様々なステップがありますし、各ステップを決定する要素も色々あります。
そのうちどこが自分と異なるのか、冷静に分析してみるのです。

即座に「頭おかしい」認定をぶつけあうギスギスした世の中だからこそ、腰を据えて「差異分析」する価値があると思います。


最近の時事ネタだと、「東京オリンピックの開催の是非」がまさに「情報の非対称性」の典型だと思っています。
当局側と一般国民の保有する情報があまりに異なるために、国民側は当局を「頭おかしい」と感じている……のでは?

ここからは僕の妄想です。

当局にとってすれば、オリンピックは外交問題なのでしょう。
やる/やらないの判断次第で、これからの国際社会における位置づけが変わって、いろいろな場面で不利益を被りかねません。
そこで、諸外国有力者の意向のような情報を収集して、諸々の判断を下しているのでしょう。

外交関係の情報はトップシークレットであり、国民が知るはずありません。
当局と国民の間には、凄まじい「情報の非対称性」が横たわっています。
そのため国民は当局の判断が理解できず、「当局の人間は頭がおかしい」と怒っているのです。