キモオタク地方公務員(県庁職員)のブログ

地方公務員の人生満足度アップを目指しています。地方公務員志望者向けの記事は、カテゴリ「公務員になるまで」にまとめています。

タグ:政策論


最近はあまり聞かなくなりましたが、僕が採用されたばかりの頃、「自治体=株式会社」「住民=株主」というたとえ話をよく聞きました。

住民はより主体的・積極的に行政参加すべきだ……という文脈の主張の中で、住民側も自治体側も使っていました。

当時は特段気に留めませんでしたが、今から思い返してみるとかなり違和感があるアナロジーです。

僕は就職した年度から株式投資を始めており、何気に地方公務員歴=株主歴です。
どちらの立場も経験してきたからこそ、自治体≠株式会社、住民≠株主だと強く感じます。

住民は「自治体の所有者」ではない

デジタル大辞林によると、株主とは
  • 株式会社の出資者として、株式を所有している者。会社に対して、株主権をもつ
存在とのこと。

 
要するに、株主は企業の所有者であり、顧客(消費者)や従業員(労働者)とは別物です。
もちろん株主が顧客や従業員を兼ねるケースもあり得ますが、根本的には別の存在です。

株主は所有者であるがゆえに、企業から恩恵を受けられます。
つまり株主と企業は、所有をベースとした関係を築いています。


一方、住民と自治体の関係は、そう単純ではありません。

まず、住民は自治体の所有者ではありません。
法律論的に突き詰めていくと、公有財産は全て「総体としての国民」の所有物であるのかもしれません。
しかし、少なくとも住民個々人が自治体を共有または分割所有しているわけではなく、自治体の財産に対して住民が所有権を行使できるわけでもありません。

また、住民は間違いなく行政サービスの消費者です。
ここは異論無いでしょう。

最後に、住民は自治体の従業員なのか?という微妙な論点があります。

自治体の従業員といえば、まず間違いなく地方公務員が挙げられます。
ただし、行政サービスは公務員だけによって提供されているわけではありません。
各種の規制法令など、公務員以外の人に行動を強いることで実現している行政サービスも多々あります。
 
この意味で、行政サービスの提供のために住民も少なからず労働力を提供していると言えないこともない……のかと思います。


住民=株主というアナロジーは、行政と住民のユニークな関係性を、極度に単純化してしまいます。
住民を単に株主、つまりは所有者とだけ見なしてしまうと、いろいろな視点がこぼれ落ちてしまうでしょう。

株主は不平等だが住民は(建前上)平等

株主は、持株数(出資割合)に応じて、受けられる恩恵が異なります。
持株数が一定数を超えると株主優待が豪華になるケースも多いですし、何より株主総会で行使できる票数は持株数に比例します。

株主の世界は、持株数が多いほど強いのです。
株主全員平等というわけではありません。


一方、住民は皆平等です
実際は不平等がまかり通っている気もしますが……建前上は平等です。
 

建前上も実質も不平等が当然である株主の世界とは全然異なります。


住民=株主だと捉えてしまうと、「住民は平等」という原則を見失います。
所得額や納税額に応じて住民間に序列があるかのような錯覚に陥り、「たくさん納税してるんだから」と便宜供与を強いてくる地主のような存在が生まれてしまいます。

株主はだいたい「お金持ちの大人」だが住民はいろいろ

株主は、誰もが簡単になれるわけではありません。
株式を購入するためのお金がまず必要ですし、大金を自由に使える裁量権も欠かせません。

そのため、株主は基本的にお金持ちの大人、いわば社会的強者が多いです。
お金持ちかつ大人であるがゆえに、「生活に余裕がある」「理性的」「ビジネスライク」といった内面的な属性も特定されていきます。

一方、住民は様々です。
子どももいれば大人もいますし、貧乏な人も億万長者もいます。
パーソナリティも様々です。
生活に切羽詰まっている方も多いですし、理性や打算ではなく感情的に動く人も多いです。
社会的強者がいれば、社会的弱者も多いのです。

住民=株主という譬え話は、住民の多様性を捨象しがちです。
特に社会的弱者の存在を見失い、住民全員に強者としての振る舞いを求めかねません。

あえて「住民=株主」とたとえたがる意図とは? 

何らかの比喩を用いるときは、それなりの目的が存在するものです。
聴衆にとって身近な物事に例えてわかりやすくしたり、あえて大袈裟に表現して記憶に焼き付けようとしたり……

ただ、「住民=株主」という喩えの場合は、メリットが全然思いつきません。
むしろ誤解を招きやすいので、避けるべきだと思われます。
今度この表現を見かけたら、その意図を深掘りしていきたいなと思っています。
ひょっとしたら悪意を持ってミスリードを狙っているのかもしれません……


弊ブログをご愛読いただいている方は薄々感づいているかもしれませんが、僕は自治体の広報業務に対してアンビバレントな感情を抱いています。
 
大事な業務であることは間違いないが、喫緊の課題解決にはならないし、住民の直接的便益(お金がもらえるとか、負担軽減になるとか)にも繋がらない。そのため優先順位はどうしても劣る。

要するに、役所としては注力したい分野だけど、住民は特段欲していない。
住民からすれば「無駄」に映りがちな事業。
こういう埋めがたいギャップのある業務だと思っていました。

しかし最近は考えを改めつつあります。
役所が自ら手がける広報業務に対し、住民側のニーズの高まりを感じます。
これまで行政関係の情報を住民に提供してきたマスコミが、その役割を果たさなくなってきたからです。

一次情報が伝わらない時勢柄

新型コロナウイルス感染症が流行し始めてからというもの、マスコミは行政サービスそのものはろくに紹介せず、行政サービスに対する批評ばかりを取り上げています。
一部のマスコミは以前からこういうスタンスを貫いていましたが、今となってはほぼ全てのマスコミがこんな感じです。

  • 新設された補助金の詳細は一切取り上げず、他自治体よりも給付額が少ないことだけ報じる
  • 新サービスが始まってから時間をおいて報じることで、出遅れ感を出す
  • 新サービスに対する関係者・有識者の見解だけを報じて、サービスの中身は取り上げない

行政が伝えたいのは、サービスの具体的な内容、利用方法、提供期間、対象者、利用条件……といったサービスそのものの情報です。
しかしマスコミは、サービスそのものの情報はばっさり割愛し、代わりにサービスに対する意見や考察ばかりを報じます。
つまるところ、行政が住民に伝えたい情報を、マスコミは伝えてくれないのです。


「せっかくサービスを準備したのに、マスコミがろくに取り上げないせいで、全然広まらない……むしろマスコミが叩くせいでサービス対象者が尻込みしてしまい利用されない……」
こういうジレンマをおそらく地方公務員の9割は感じているのでは?

このような報道スタイルを否定するつもりは毛頭ありません。
マスコミは営利企業=利益につながる行動を選択するのが当然であり、行政を叩けば利益が湧いてくるのであれば、そうするのが当然の選択です。
 
もし「行政を叩いておけば安定して儲かる」という図式が成立しているのであれば、むしろ僕自身投資したくなるくらい魅力を感じます。
行政という存在は当面無くなりません。 飯の種が尽きないのです。

ニーズとのギャップ

サービス自体は一切取り上げず批評ばかり報じるという報道スタンスは、行政にとっては非常に迷惑です。
余計な揉め事に煩わされますし、何よりせっかくサービスを整えても周知できず、住民に気づいてもらえません。


行政だけでなく住民も不利益を蒙ります。
自分にとって有益な行政サービスがリリースされているかもしれないのに、これを知る機会が不足しますし、取り上げられたとしても肝心の中身がわからないのです。

今更僕が取り上げるまでもなく、このような感覚は全国的に見られています。
つまり、行政サービスそのものの情報に対する住民側からのニーズが高まってきているのです。

住民が欲している情報=行政サービスそのものの情報を、民間企業(マスコミ)が提供していないという現状は、一種の「市場の失敗」なのかもしれません。
「市場の失敗」を補完するのは行政本来の役割です。

本記事の序盤で、広報業務は「大事な業務であることは間違いないが、喫緊の課題解決にはならないし、住民の直接的便益(お金がもらえるとか、負担軽減になるとか)にも繋がらない。そのため優先順位は劣る。」と書きましたが、
  • 住民からのニーズがある
  • 市場の失敗の補完である
となると前提が変わります。本腰を入れて取り組まなければいけません。

マスコミを使うか、内製化するか

広報を強化する方法は、大きく2つに分かれると思います。

ひとつはマスコミを利用する方法です。
マスコミにお金を払って広告枠を買い取り、広告として情報発信します。

もうひとつは自らメディアを運営し、マスコミを介さず直接住民にアプローチする方法です。
ホームページや広報誌のような従来媒体をさらに充実させたり、SNSで公式アカウントを運営したり、公共施設に掲出したり……
最近はデジタルな手法ばかり注目されがちですが、アナログな手法もまだまだ活用の余地があると思います。

どちらの路線をとるにしても相当なコストがかかります。
前者は言わずもがな広告掲出料が発生しますし、後者はメディア維持費・コンテンツ制作費のような経費面での負担のみならず、広報技能を持ったスタッフを確保しなければいけません。
さらに後者の路線を採ると、「民業圧迫だ」「戦前の大本営発表に回帰するのか」といった外部からの批判も避けられないでしょう。

結局は政治的判断であり、自治体職員に決定権限はありません。
もちろん個人的には圧倒的に後者推しです。

マスコミから学びたい


情報に対する印象は、「見せ方」次第で大きく変わります。
印象操作テクニックを駆使し、「受け手がどういう認識・感情を抱くのか」を予測しコントロールする技能においては、マスコミには誰も敵わないでしょう。素直に賞賛します。

「見せ方」においては、役所はとうていマスコミに勝てません。
そのため、住民の目に映る役所像、つまり役所の「見え方」は、完全にマスコミに掌握されています。


こんな状態でも従来はなんとかなってきたものの、最近は役所側・住民側ともに不利益が大きくなってきました。
今こそ反旗を翻すときなのかもしれません。


全国的にイベントごとが復活してきました。
(最近はまた怪しくなってきましたが……)
ただし、都市部と田舎を比べると、かなりの温度差を感じます。都市部のほうが復活のペースが早いです。

これから当面の間、田舎では、イベントごとに限らず、地域住民発の活動が下火になると思っています。
キーパーソンがいなくなるからです。
 
キーパーソンの内訳は様々です。リタイア後の地域住民、副業サラリーマン、ボランティア、地域おこし協力隊、イベント会社のプロデューサーなどなど……意欲的に地域を盛り上げようと励んでいる方を指します。

こうした方々はこれまで、イベントの企画運営、地域住民コミュニティの運営、スモールビジネスなどを通して、地域を盛り上げてくれました。
しかし今後こうした方々は地域活動から離れていってしまうのでは、もしかしたら既に離れてしまったのでは?というのが、僕の懸念です。

キーパーソンはコロナ下でも活動している

かつて観光の仕事をしていた頃、地域のキーパーソンの方々ともよく関わりました。
今でも各種SNSで活動を追いかけています。

彼ら彼女らは、例えるならマグロです。
燃えたぎるパッションのために、活動を止められません。

新型コロナウイルス感染症のせいで外部環境が変わろうとも、彼ら彼女らのパッションは不変です。
人との接触や越境移動が制限されようとも、活動意欲は抑えられません。

そこで彼ら彼女らは、オンラインに活路を見出します。
オンライン上で同士を募り、できることを模索していくのです。

オンラインの悦びを知った上で地域に戻ってくるか?


思うに、田舎のリアル社会で活動するよりも、オンラインで活動するほうが、あらゆる面で有益です。

多くのターゲットにアプローチできる


田舎の地域社会でどれだけ精力的に活動しても、見込み客の数には上限があります。
いずれ頭打ちになって停滞せざるを得ません。
オンラインであれば可能性は無限大です。

全国の有能かつモチベーションの高い仲間と協働できる


田舎はそもそも人員の頭数が少ないですし、地域活動に意欲的な人間になるともっと少ないです。スキルもありません。
つまるところ、人的リソースが圧倒的に不足しています。
そのため、最終的なアウトプットの質も量も、自ずから限界があります。

一方オンライン上には、自分並みの有能な人間がごろごろいます。
そういった層と協力し合えば、地域住民とでは成しえなかったスケールのアウトプットが実現できます。

大きな仕事を達成する悦びを知ってしまった後に、ちんまりした事業を再開する気が果たして起こるでしょうか?
しかも仲間は、やる気も能力も今ひとつな田舎住民達。
オンライン上で出会った、意志を同じくする全国の優秀な仲間達とは雲泥の差があります。

たいていの人にとっての地域活動は「やったらやったで楽しいけど、やり始めるまでは腰が重い」ものだと思っています。
いったん日々のルーチンに組み込まれてしまえば有意義に感じられます。
ただし一旦ルーチンが途切れると、再開するのは大変です。面倒臭さが勝ります。

新型コロナウイルス感染症のせいで、ほとんどの地域で活動のルーチンが途切れたことと思います。
キーパーソンの仕事は、まずは他の住民を呼び戻すことです。
やる気の冷えてしまった住民を再び揺り動かして、巻き込まなければいけません。
すぐに活動そのものを再開できるわけではありません。いわば土壌作りからやり直しなのです。

人間関係面でのオンライン活動との落差は凄まじく、地域住民への幻滅すらありえると思います。
この難局を果たして乗り越えられるのか?僕は正直悲観しています。

しがらみが無い


リアル田舎社会だと、外部から横槍が入って企画が頓挫するという事態が多発します。
議員古老が許さないとか、地元メディアが自社の営利活動に組み込むべくああしろこうしろと口出ししてくるとか……
「教育のため」をお題目に無理難題・私利私慾をぶつけてくるPTA団体もかなり厄介と聞きます。
他住民から妬まれて不快な思いをすることもあるでしょう。

オンラインだと、こうしたしがらみから随分解放されて、自分の思い描くままに活動できます。
(妬み・嫉妬はむしろもっとひどいかもしれませんが)

自分のキャリアアップにつながる


田舎社会でどれだけ頑張って成果を出しても、最終的に到達できるのはせいぜい地方議員くらいです。
オンラインであれば全国区の専門家へと羽ばたけます。
どっちが好ましいかは人それぞれでしょうが、大抵は後者を選ぶのでは?


とにかく、一度オンラインでの活動を経験したら、あまりの心地よさのために、二度と地域活動に戻ってきてくれないのでは?と思えてならないのです。

決めるのは「住民の人柄」


合理的に考えれば考えるほど、オンライン上での活動を続けるほうが賢い選択です。
堅固な合理的理由を打ち破り、彼ら彼女らを地域に繋ぎ止められるとしたら、地域住民との絆しかないと思います。
  • やる気も能力もいまひとつだけど、一緒に活動しているとなぜか楽しい仲間
  • お金も名誉もくれないけど、素直に喜んでくれる地域住民


こういう存在が桎梏とならない限り、キーパーソンは地域を飛び出していってしまうと思います。

今更どうこうできる話ではありません。これまで(コロナ発生前まで)の蓄積の問題です。
キーパーソンが孤軍奮闘していたような地域はさらに衰退するでしょうし、地域全体で盛り上がっていたところは早々に復活するでしょう。


かつて観光の仕事をしていた人間がこんなこというと怒られてしまいそうですが、僕はイベントごとは「確固たる目的があるものを除き不要」だと思っています。
この機にゾンビイベント(特に意味なく延命されている、開催することだけが目的なイベント)が払拭されればいいなと思うくらい。
ゾンビイベントが減れば、会場や人員、予算面でのリソースが生まれて、新しい「目的のある」イベントが生まれてくるはずです。

押印ルール見直しの機運が高まっています。
僕自身これまで非合理的な押印ルールのせいで散々苦しめられてきたので、この機にやり過ぎなくらいに簡素化すればいいと思っています。

現在生き残っているルールは、これのおかげで誰かが得をしているからこそ存続しているのだと思っています。
このため、ルールを変えようとすると、その誰かがきっと反発してきます。

現行のめんどくさい押印ルールも同様です。
世間の大多数が手を煩わせることで、誰かがきっと利益を享受しているはずです。
これから押印廃止が現実味を帯びてきたら、既得権益を死守すべく、その誰かが反旗を翻してくるでしょう。

これから押印廃止反対派との論争のネタになりそうだと思っているポイントをまとめておきます。

「押印廃止」と「行政のデジタル化」は密接に関係しているけど根本的には別問題

同じようなタイミングに話題になったためなのか、「押印廃止」と「行政のデジタル化」を混同している方がけっこういるように思います。

押印を廃止すれば、確かに紙の使用量は確実に減少するでしょう。
ただし、紙の使用量が減れば行政のデジタル化が進むかといえば、そう簡単な話ではありません。

行政のデジタル化を進めためには、押印ルール以外にも、色々な規則や慣習を見直さなければいけません。
押印廃止よりもずっと難しく、気の長い道のりになるでしょう。


一方、押印廃止の効果は、紙資源の節約(=ペーパーレス)だけにとどまりません
紙資源以外にもインクなどの節約になりますし、資材だけでなく時間や労力もカットできます。

そもそも、押印ルールの不合理・非効率は、役所に限った話ではありません。
押印問題は、少し前までは「押印作業のせいで出社せざるを得ない」というテレワーク阻害の文脈で語られていました。

たとえ押印廃止が行政のデジタル化に繋がらなかったとしても、他にもたくさんメリットがあります。
むしろ行政のデジタル化は、たくさんあるメリットのひとつに過ぎません。
とりわけ紐付けて議論する必要は無いと思います。


「行政のデジタル化」という困難な課題の一手段として「押印廃止」が位置付けられてしまう、いわば「行政のデジタル化」と「押印廃止」の間に主従関係を設けられてしまうと、押印廃止反対派にとって都合が良くなります。
「行政のデジタル化という目標のためであれば、押印廃止はあまり効果がない。コスト的に無駄だ。もっと他のところを見直すべきだ」という反論が有効になってしまうのです。

前述のとおり、押印廃止の効果は、行政のデジタル化を差っ引いてもたくさんあります。
行政のデジタル化と無理に結びつけず、ガンガン進めていいと思います。


押印をひとくくりにせず内実ごとに分けて考えたほうがいい

役所絡みの押印手続きは、ざっくり分けて以下3通りがあると思います。

①凛議文書に押印する(押印決裁)
②公文書に公印を押印する
③役所外(住民や民間事業者)から提出してもらう文書(申請書や請求書など)に押印させる

これらはそれぞれ、押印する人も違いますし、文書の宛先も異なります。
押印している背景・理由も別物です。
このため、押印廃止にあたっての検討事項も、廃止するためのアプローチも異なります。

①は、既に電子決裁システムを導入している自治体であれば、一瞬で解消します。
それを使えばいいだけです。
未導入の自治体だと時間がかかりますし、補正予算を組んで議決を経るというプロセスも発生するため、時間がかかるでしょう。

あとは公文書管理の問題も関係してきます。
「説明責任」を重視する方々にとって、決裁過程は文書で残しておかなければいけないものです。
「電子決裁を隠れ蓑にして意思決定プロセスを隠すつもりだ、許せない」と息巻いている方も既にいらっしゃいます。
こういう外圧といかに調和するか、整理が必要です。

さらにはパソコン周りの設備も更新が必要でしょう。というかやるならぜひ更新してほしい。
たとえば僕のパソコンだと、ワードファイルひとつ開くのに数十秒かかりますし、PDFファイルを開こうとすると2割ほどの確率でフリーズします。
こんな環境で電子決裁しようとすれば、データを開くための待機だけで膨大な時間を消費します。


②は、内規を見直す作業がメインになるでしょう。
あとは法律の専門家にヒアリングして、押韻を廃止しても支障無いかを確認する必要があります。
①③と比べて一番簡単だと思います。


③が多分一番難しいです。
役所の内規を見直すだけでなく、民間の商慣習・法律や会計の専門家の見解・会計検査院の動き(押印なし請求書でも適正と認められるか?)など、考慮すべき事項がたくさんあります。
自治体レベルではなかなか改革できず、まずは国の会計手続き変更を真似ることになるでしょう。


①〜③を十把一絡げにして、全ての押印手続きに対して同一のアプローチだけを講じれば、そもそもの背景・理由の違いのために、トラブルが生じるでしょう。
押印廃止反対派は、押印廃止によって発生したトラブルを目ざとく見つけて、あげつらってくると予想されます。

押印の性質をきちんと見て分類し、それぞれに個別のアプローチをとって、極力トラブルを未然に防ぎたいところです。

体験談

本記事をご覧の方には、特に学生の方だと、「どうして世間が押印を目の敵にしているのか」いまいちわからないかもしれません。
というわけで、僕の個人的経験を最後に書き記しておきます。


とある外資系企業の日本支社(以下X社)に業務を発注したときの出来事です。
僕が仕事を発注した日本法人は「Xグループの東アジア支社」という扱いでした。
日本事業の責任者は、「Xグループ東アジア支社長」です。

このような組織形態のため、X社から図領した書類には、文書の発出者として「Xグループ東アジア支社長」の氏名が記載されて、東アジア支社長の印鑑が押されていました。

僕の勤める県庁には、「民間企業から図領する支払い関係書類は全て『代表取締役社長』の押印が必要」という会計ルールがあります。
外資系企業であっても同様です。
「支社長」の押印では支払いできず、「代表取締役社長」の押印が必要です。

ダメもとで会計課に提出してみましたが、「代表取締役社長の押印を貰うこと」というメモ書きとともに即座に突き返されてしまいました。

当然のことながら、東アジア支社の独断では、代表取締役社長の印鑑(=海外にある本社の印鑑)なんて使えるわけがありません。
そのため、東アジア支社から本社に対して、押印してもいいかの稟議を回してもらいました。
X社の担当者からは「数百万円オーダーの契約で本社まで稟議を回すのは初めてです、普通は百億超えたら回すんですけど……」と苦笑されました。
僕も苦笑するしかありません。

苦笑だけで済めばよかったものの、事態はどんどんヒートアップしていきます。
稟議を回したところ、Xグループ本社法務担当から「たかが数百万円規模のくせに代表取締役社長の押印を求めるなんて、一体どんな案件なんだ?ひょっとしたらこれを皮切りに超大型プロジェクトが始まるのかい?東アジア支社には期待していいんだね?」という強烈なプレッシャーを掛けられてしまったらしく、東アジア支社は事態の沈静化に奔走する羽目になりました。

弊庁に対しても、「あくまでも事務手続き上、代表取締役社長の押印が必要なだけです、深い意味はありません」という一筆が欲しいと、わざわざ支社長から連絡がありました。

結局、2ヶ月くらいかかってなんとか代表取締役社長印を押してもらえたのですが、X社からは後々苦言を呈されました。
代表取締役社長印を押すための人件費だけで、今回の業務の利益がほとんど吹き飛んだとのこと。
「もう二度と自治体とは仕事したくない」とまで言われてしまいました。
 

僕のケースは極端かもしれませんが、役所の押印ルールのせいで誰かに迷惑をかけた経験は、公務員であれば誰でも持っていると思います。
だからこそ押印廃止の流れにときめいているのです。



公務員・教員界隈で話題になっている「文部科学省の学校の情報環境整備に関する説明会」の動画を見ました。



学校のオンライン教育を充実させるため国でがっつり補正予算を組んでいるから自治体も付いてきてねという趣旨の動画で、いろいろな補助金メニューが紹介されているのですが、


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このスライド(だいたい22分〜28分あたりで登場)のように役所らしからぬ熱い説明が展開されます。


個人的にツボったスライド

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めっちゃわかる。特に回線の遅さは深刻と聞きます。

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やっぱ世界はGAFAMなんだねと痛感しました。
日本メーカー……

とはいえ実現性は薄いと思わざるを得ない

文部科学省の熱意に本物だと思いますし、教育環境を充実しなければいけないのも事実だと思います。
ただ、田舎役場職員の感覚では、実現はかなり難しいと感じてしまいます。

まず、住民の理解を得られるとは思えません。
 
教育への投資によってメリットを得られるのは主に若い世代です。
しかし田舎(特に有力者)はご高齢の方が多く、たとえオンライン学習環境が整ったところで恩恵は受けられません。
ありとあらゆる言い分を拵えて無駄金扱いして、別の用途に振り向けようとします。
 
環境整備がこれまで進んでいない大きな理由がまさにここ、自分に直接的なメリットが無いために教育への投資を無駄金扱いする層がものすごく分厚いためだと思います。


実際に運用する段階では、家庭間のITリテラシー格差が大きなハードルになると思います。
ボトム層は本当に機器の使い方を知りません。
 
例えばスマートフォンだと、電話・LINE・カメラ・ネットくらいの使い方しかできず、自らアプリをインストールすることすらできない人も実際います。
(LINEは販売店にインストールしてもらう)

家庭学習には親御さんのサポートが不可欠です。
しかしボトム層家庭だと、サポートは一切期待できません。
学校である程度端末の使い方を教えてもらった後でないと、そもそも使い方がわからず何もできないでしょう。

教育力のある家庭では、既に家庭にオンライン学習を取り入れていることでしょう。
そのため、行政による整備の恩恵も、さほど大きくないと思われます。
 
一方、自らオンライン学習環境を整備するだけの意欲・余裕のない家庭は、大いに恩恵を受けられることになります。 
しかしこういう層の多くは、IT機器に疎く使い方に不慣れです。
恩恵を受けるだけのリテラシーが追いついていないのです。
機器と教材だけ準備して「後は家で頑張って」というスタンスでは、格差がより広がるだけなのではと思います。

何より僕自身、オンライン学習のメリットがよくわかっていません。
そのせいかあんまり推したくなりません。冷暖房整備の方が先じゃないかと思ってしまいます。
自ら体験してみたら理解できるんでしょうか?
やはりiPadProを買うしかないのか……?

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