キモオタク地方公務員(県庁職員)のブログ

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2024年03月


僕の職場の若手職員(20代の職員)は本当に退庁が早く、20時を過ぎて残業する人は一人もいません。
早く帰るのは良いことなのですが、先輩や上司に仕事を残して帰られてしまうケースも少なからず発生していて……


21時頃に30代・40代のメンバーでその尻拭いをしていると、自然と「最近の若手、本当に質が落ちてるよな」という愚痴が聞こえてきます。

このような愚痴トークを何十回も繰り返す聞いているうちに、ここでいう「若手職員の質の低下」には、二種類のニュアンスが含まれることがわかってきました。

ひとつは「全体的に能力が落ちている」という現象です。
これまで当たり前に任せていられた軽度の単純作業すら回せない職員が増えた等、ボリューム層の能力が落ちてきているという意味です。

そしてもう一つは、「優秀な職員がいなくなった」という現象です。
出世ルート突入間違いなし!といえるような傑物が見当たらない、つまり上位層がごっそり抜け落ちているという意味です。


「若手地方公務員の能力が低下している」という話題自体は、今に始まったことではありません。
僕が入庁した頃も「最近の若手は……」と難癖つける人だらけでしたし、多分いつの時代もそうなんだろうと思います。

その原因も、「民間と比べて待遇が悪い」「職業として魅力が無い」という2点に集約されています。
僕自身、今更改めて議論する話題ではないと思っていました。

ただこの一年間、愚痴トークをBGMに仕事をしているうちに、後者の現象(優秀な若手職員の消滅)に関する新説に思い至りました。
県内での人口集中、すなわち県庁所在地や中核市“以外”の過疎化もまた、優秀な職員が県庁に入ってこなくなった原因のひとつだと思っています。

若者の都市部流出は止まらないが「真の田舎」の若者は「田舎都市部」にとどまってくれる

同じ田舎県の中でも、県庁所在地・中核市の周辺と、それ以外の地域の間には、歴然とした差があります。


以下この記事では、便宜上、三大都市圏を「真の都市部」、県庁所在地や中核市を「田舎都市部」、それ以外の地域を「真の田舎」と称します。


三大都市圏のような都市部在住の方からすれば「どっちも田舎だろ」と思うかもしれませんが、設備も住環境も雰囲気も暮らしぶりも……全然違います。
何より心情が異なります。
「田舎都市部」と「真の田舎」は、物理的距離のみならず心理的距離でも離れているのです。

勤労世代であれば「田舎都市部」「真の田舎」を行き来する機会があり、それほど心理的距離は離れないと思われますが、行動範囲が狭くなる高齢者や子どもは、居住している「田舎都市部」または「真の田舎」にどっぷり浸かることになり、たとえ同じ県内であっても心理的距離は隔絶します。


災害発生時には、この違いがわかりやすく露見します。
典型的な事例が、「危険で不便なのに頑なに避難を拒み、被災地に留まろうとする高齢者の方々」です。
令和6年能登半島地震でも、金沢市などに二次避難せず、水道も電気も無いのに被災地生活を続けている方々が相当数いらっしゃることが連日報道されていました。
彼ら彼女らにとって、金沢市のような「田舎都市部」はまさに未知の世界であり、被災地生活の不便さを凌駕するほどに強烈な不安を感じたのだろうと推察します。

被災地の中学生の一部が金沢市に集団避難したという報道もありましたが、この集団避難に応じた中学生の心労も計り知れません。
集団避難した中学生が「一部」に留まり、危険で不便なのに被災地に残った中学生がいたことも理解できます。



今回注目したいのは、子ども世代の心理的距離です。

「田舎都市部」の子どもは、「真の田舎」「真の都市部」いずれに対しても心理的距離を感じています。
「真の田舎」に住んでいる子どもは、「田舎都市部」に対して心理的距離があり、「真の都市部」に対してはさらに隔たりを感じています。

この心理的距離の違いが、進路の選択、具体的には進学と就職の選択に影響してきます。
「真の田舎」の子どもにとって、「田舎都市部」に出る段階でまず心理的なハードルがあり、「真の都市部」まで出るのは、さらにもう一段高いハードルがあるのです。

その結果、せっかく能力があるのに、心理的なハードルを越えられずに「田舎都市部」に留まってしまう人が少なからずいます。
例えば、普通に旧帝大を狙えるのに地元国公立大学に入学したり、ハイスペックなのに就職先として県内企業・県内自治体しか視野に入れていなかったり……

県庁内にいる「優秀な職員」の中にも、このような過程を経て入庁してきた人が少なくありません。
チャレンジさえしていれば「真の都市部」のエリート層に食い込めたはず……という、傍から見れば「もったいない」人たちです。

採用担当者の努力で人口動態的変化に対処しきれるのか(絶望)

改めて言うまでも無く、日本全国の「真の田舎」地域において、急激に人口が減少しています。
特に子どもの減少が著しく、高齢化率がどんどん上昇しています。

この人口動態的な変化が「優秀な若手職員」の減少にも影響していると、僕は思っています。


「真の田舎」出身の子どもの総数が減れば、その中に一定割合で存在する優秀な人材の総数も減ります。
総数が減った結果、県庁に入ってくれる「真の田舎」出身の優秀な人材(もったいない職員)が減っており、結果的に「優秀な若手職員」も減っているのではないか……と思うのです。

「真の田舎」出身の若者が、能力に恵まれているにもかかわらず心理的ハードルに阻まれて「田舎都市部」に留まるという現象自体は、今後も続くと思います。
しかし、「真の田舎」の人口はこれからもどんどん減少していくでしょう。
もはや「もったいない人材」をあてにするのは無理だと思います。

優秀な若手職員を確保するには、もとから優秀な人を他から奪い取って採用するか、今いる人材を育成するしかありません。
現状多くの自治体で前者の方法を取っています。
優秀な人材を確保するため、仕事のやりがいや魅力をアピールしたり、近年はついに給与水準を上げています。
つい先日、僕の勤務先自治体の募集要項を見ていたら、僕の採用時から初任給が約3万円も上がっていて驚愕しました。

しかし、田舎の自治体がどれだけ頑張ったところで、「真の都市部」への若者流出は止められません。
給料を上げるにしても限度がありますし、たとえ給料を大企業並みに引き上げたとしても、それ以外の部分……たとえば生活の利便性や娯楽、文化資源、人的資源では、到底敵いません。

そろそろ現実を見て、人材育成をまともに考える時期が来ているのだろうと思います。

地方公務員という仕事には批判がつきものです。
民主主義の仕組み上、この現状はどうしようもありません。

地方公務員を叩けない世の中、例えば
  • 役所の権力が強すぎて不平不満を打ち明けられない
  • 役所の存在感が希薄すぎて住民同士が直接潰し合う
こんな世の中のほうがむしろ危険な気すらします。

もちろん、いくら立場上仕方ないとはいえ、叩かれるのは誰だって嫌です。
インターネット上では、一方的に叩かれ続けるのに嫌気が差して、「役所も反論すべき」という主張も見かけます。

住民からの批判に対し、役所側が反論するとどうなるのか、考えてみました。

反論のメリット…長期的には世の中のためになる

住民からの批判には、大きく分けて
  • 役所に非があるもの
  • 誤解が原因のもの
  • ポジショントーク
  • 感情的非難
この4類型に分かれると僕は思っています。

このうち、「役所に非があるもの」は、そもそも反論の余地がありません。
大人しく非を認めて対応を考えるべきです。

また、「ポジショントーク」と「感情的非難」は、反論する価値がありません。
反論したところで役所側も相手も得をしないからです。
反論を考えるよりも、いかに「早く切り上げる」かを考えたほうが有益でしょう。

反論を検討する価値があるのは、「誤解に原因のもの」です。
 

誤解を正すのはそもそもの使命

法令や制度に関する正しい情報を住民に伝えるのが、役所の基本的な役割です。
もし住民が誤解しているのであれば、それを解消するのも当然この役割の一部ですし、「正しい情報を伝える」プロセスの一環として、反論も認められて然るべきでしょう。
むしろ反論することが「住民のため」になるのです。

しかし現状、役所の批判対応は「聞き役に徹する」のが基本です。
結論を左右する致命的な誤解であれば勿論訂正しますが、そうでなければスルーするのが普通であり、好き放題に喋らせて時間切れ・エネルギー切れを狙うのが王道戦略です。

僕の体感では、一般論に近づくほど勘違い割合が高まります。
「財政状況が悪化している」「無駄が多い」「職員が多すぎる」みたいな、主語が極めて大きい批判だと、聞いているうちにどこかで綻びが出てきます。
「財政破綻以前に、あなたの理論が破綻しているのですが…」とつっこみを入れたくなる衝動を抑えつつ、適当に聞き流すという現状の対応は、本来不誠実な対応と言えるでしょう。

エスカレートの未然防止

役所としては、ひたすら聴き役に徹して相手が電話を切れば、それは「引き分け」です。
しかし住民目線に立ってみると、一切反論されないまま自説を主張し切れたわけで、引き分けではなく「完勝」と認識するほうが自然です。
 
つまるところ、「聞き役に徹する」という役所の苦情対応は、住民とっては勝利であり成功体験にほかなりません。

この成功体験は、少なくとも2つの意味で、住民の自己評価を高めると思っています。
ひとつは弁論スキル、「そこそこ高学歴集団である公務員連中を論破できるだけの弁論スキルが自分には備わっているぞ」という自信です。
もうひとつは思考力、「公務員連中が気づいていない真実に辿り着いてやったぞ」という達成感です。

しかも役所批判は、「世直し」という大義名分にも関わってきます。
役所への勝利は、個人的勝利であるのみならず、社会貢献にも資すると感じられるわけです。
二重の意味で美味しい成功体験と言えるでしょう。

「公務員論破」の甘美さにどハマりしている住民は、きっと少なくないと思われます。
(かつての上司は「2,000人に一人くらいの割合で役所批判中毒者がいる」と語っていました)
実際、とある部署での成功体験を横展開して、いろんな部署でゲーム感覚で職員を論破しにかかる住民を、何人も目にしてきました。

役所側がちゃんと反論するようになれば、住民が一方的に勝利意識を持つことも減るでしょう。
勝率が低くなれば勝負は減るはず、つまり批判対応件数が減って職員の負担も減り、本来の仕事にもっと取り組めるはずです。

反論のデメリット ものすごく大変

適切な反論には、住民側にも役所側にもメリットがあります。
できるなら反論したほうがいいのは間違いありません。
しかし現状ろくに反論していないのは、それだけの理由があります。

まず、相手の主張にきちんと反論するためには、高度なコミュニケーションスキルが必要です。
相手の主張を正確に理解して破綻箇所を見極め、相手の理解度に応じて説明を組み立て、気分を害さない穏当な言い回しで訂正を試みる……という高度なコミュニケーションを都度行う必要があるわけで、誰もが為せる技ではありません。少なくとも僕には無理です。

さらに、このような丁寧なコミュニケーションには、1回あたり膨大なエネルギーと時間を消費します。
現状の苦情量に対して毎回これを実践していたら、本当に苦情対応だけで1日が終わるでしょう。


何より人間は、誰しも自分の誤りを指摘されたくないものです。
そこそこ大きな組織で仕事をしている人であれば「反論≠人格批判」が常識であり、よほど無礼な言い回しでもされない限り、多少反論されたところで気分を害したりはしません。
しかし住民の中には、こういう割り切りをしない方も多いです。

地方公務員であれば誰でも一度は、住民から逆ギレされた経験があると思います。
ちょっとした書類の記載ミスの訂正をお願いしたら「どうして従う義務がある?」と開き直られたり、庁内で迷っている方を案内しようとしたら「余計なお世話だ」と捨て台詞を吐かれたり……
こういう事案は、まさに役所側の指摘を人格批判と捉えてしまったケースです。

つまるところ、たとえ「正しい情報を伝えたい」という善意の反論だったとしても、相手側は強烈な感情的反発を覚えます。
そのせいで相手方は余計に攻撃的になり、対応時間が長引き、対応側の消耗が一層ひどくなりかねません。

わずかでも誤りを指摘することが第一歩

大半の地方公務員は「反論できない」ことにストレスを感じていることでしょう。
しかし、もし堂々と反論できるようになったところで、今度は「反論に対する感情的反発」という新たなストレス源が生じるだけだと思います。

とはいえ、現状の「叩かれるがまま」というスタンスでは、住民側も役所側も不幸になるだけです。
たとえ相手にキレられようとも、誤りを指摘することが、長期的には相手のためになるはずです。
相手を怒らせない穏当な言い回しを細々研究するのが、現状でも実践できる最大限の対応でしょう。

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