キモオタク地方公務員(県庁職員)のブログ

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2026年09月

「被災地の復興は、若者が中心となって担うべき」という風潮は、一体いつ生まれたのでしょうか?
少なくとも僕が入庁した十数年前には、すでに疑う余地のない「常識」として鎮座していました。

一方、自然災害からの復興の事例を見ていくうちに、この「常識」に対して次第に疑問を抱くようになりました。
実際に「若者主体」で復興に取り組もうとすると、現場では無用な諍いが生まれ非効率が発生するのが常であり、結局頓挫してしまうプロジェクトも多数ありました。
そして何より、「復興に身を捧げる」という極めて不安定な人生を歩むことが、果たして本人にとって幸せなのか――本当に自分の意志で飛び込むならまだしも、中高年世代が若者に対し「復興に携わって、地域の未来を作ってくれ」と促すことは人道的にどうなのか、疑問が絶えません。
ともすればそれは、地域の未来のために若者を差し出す、現代版の人身御供のようにすら思えてならないのです。

僕はむしろ、被災地の復興は若者よりも高齢者が中心となって進めるほうがよいと思っています。
高齢者主体で進める、独善に走らないよう若者が監視する……という現状とは反対の方法こそ、地域全体としても個々人としても幸せな道のような気がしてなりません。

未来の社会は「高齢者向け」である必要

まず大前提として、日本全土でこれからどんどん高齢化が進んでいきます。
だとすれば、復興に際して新たに地域をつくるなら、高齢者のニーズに合った設備・機能・サービスを備えることは避けて通れません。

そしてそのニーズを誰よりも把握しているのは、当然ながら高齢者自身です。たとえ若者が熱心に高齢者ニーズを勉強したとしても、当事者の希望・期待をすべてカバーするのは不可能です。

若者が頑張ってニーズを拾おうとするも、なかなか高齢者層からの合意を得られずどんどん疲弊、完成した後も「もっとああすればよかった」等と後出しで注文を付けられる……というのが典型的なパターンです。復興に限らず、こういうケースは本当によく耳にします。

このような不幸の連鎖が続くのは、若者が主体を務めようとするからです。
それなら最初から、高齢者自身が主体的にまちづくりへ携わったほうが、はるかに合理的だと思えるのです。

若者主体では合意形成が困難

地域の復興には、住民にとって痛みを伴う合意形成が避けられません。
土地利用をどうするか、生業をどう調整するか——誰かが得をして誰かが割を食う、そういう泥臭い利害調整の連続です。

こうしたタフネゴシエーションには相応の技量が求められます。
相手の感情の機微を的確に見抜いたり、刺さる言葉を選び抜く等、交渉の場でのスキルはもちろんのこと、外堀を埋めたり根回しをしたり等、事前準備のノウハウも必要です。
これらは座学で身につくものではなく、実践を通して習得するもの――いわば「社会人経験」そのものであり、若者が苦手とする分野ともいえるでしょう。

しかも必要なのは交渉スキルだけではありません。
地域内に長年かけて積み上げてきた人間関係という資本、いわば「信頼の貯金」が物を言う世界であり、これは若者には絶対に代替できません。

復興の初期段階に、何か新しい取組を単発で始める程度であれば、ぽっと出の若者であっても実現可能です。
しかし中長期的な意思決定をするとなると、若者ではあまりに力不足です。
「年の功」が必要な場面が多いのです。

不安定な生き方を若者に強いていいのか

何より見過ごせないのが、復興に携わる若者本人の人生です。

復興に携わったところで、お金は稼げません。
それどころか私財を投げうつことが半ば当然のように求められ、じわじわと膨らんでいく赤字に日夜苛まれる……そんなケースを何度も目にしてきました。
仮に頑張って黒字化しようものなら、今度は「復興で儲けるとは何事か」と後ろ指を差される始末です。

要するに復興とは、ローリターンだけは確実に約束されているビジネスなのです。
一方でリスクが高いことは言うまでもありません。

このようなハイリスクローリターンな仕事に、若いうちに携わるのは、その後の人生設計を狂わせかねません。
少なくとも、子育てと両立させるのは至難の業でしょう。
子どもの学費や生活費を心配しながら、地域のために私財を溶かし続けるというのは、正直なところ悪い冗談にしか聞こえません。

手段と目的が逆転しているのでは

そもそも、誰が復興の主体となるかというのは、あくまで手段の話にすぎません。
重要なのは、若者を含めたあらゆる世代が住み続けたいと思えるような地域へと復興を遂げること、のはずです。
にもかかわらず、「復興は若者が担うべきだ」という命題ばかりがひとり歩きし、いつしか目的そのものであるかのように語られてしまっている。これはどう見ても、手段と目的が逆転しています。

意地悪な見方をすれば、このスローガンは、既存の意思決定層——すなわち地域の高齢者たち——にとって、実に都合のよいレトリックなのではないでしょうか……?

「未来は君たち若者のものだから、復興も君たちが担うべきだ」と持ち上げておきながら、実際には責任とリスクだけを丸ごと押し付け、自分たちは安全圏から指図する側に回る。

美しい言葉の裏に、そんな構図を見てしまうのは、僕だけでしょうか……?

地方公務員をやっていると、「市民感覚が欠けている」というお叱りを定期的に受けます。

ここでいう「市民」とは、「○○市に居住している人」という意味ではなく、「一般的社会人」という意味です。
僕みたいな県庁職員としては「県民感覚」「住民感覚」のほうが馴染み深いですが、この記事では「市民感覚」という表現で統一します。

数ある地方公務員批判フレーズの中でも、「市民感覚」はとりわけ意味が曖昧です。使う人によって定義が異なるのは言うまでもなく、そもそもどのような意味で使っているのか判然とせず、返答に困ることも多いです。

そこで、かれこれ15年近く「市民感覚が欠けている」と糾弾されてきた経験をもとに、「市民感覚」が何なのか、僕なりの考えをお伝えしたいと思います。

僕の持説は、「市民感覚=被害者意識、あるいは『自分は被害者である』という自意識のもと世の中を眺めた際の見え方」というものです。
「市民感覚」という言葉が使われた際のシチュエーションや文脈を踏まえると、こう捉えるのが一番しっくりきています。

「市民感覚が無い」人たちには「加害者属性」がある

「市民感覚が無い」と非難されているのは、地方公務員だけではありません。
ほかには、政治家、資本家、経営者、犯罪者などが挙げられます。

これらに共通するのは、「加害性」を帯びているという点です。
犯罪者は言わずもがな、政治家は諸々の政治的意思決定で社会を揺るがし、資本家は投資判断で地域経済を動かし、経営者は給与分配や解雇権で従業員の生活を左右します。
いずれも、自らの決定が他者の生活に一方的な影響を及ぼすという点で、加害性を帯びていると言えます。

地方公務員も、税や社会保険料を徴収するという形で、日常的に一種の加害行為を担っていると捉えることができます。

裏を返せば、「市民感覚がある」とされる人は、加害する立場にはない人……つまり一方的に虐げられる側の存在だということになります。
このような人たちが共通して保有する感覚とは、すなわち「被害者意識」にほかならない……と僕は思っています。

「市民感覚」を持ち出す人は救済を求めている

地方公務員を非難するフレーズはいろいろありますが、その中でも「市民感覚」を使う人は、「自分たちは不利益を被っている」とセットで主張してくることが多いです。
公共施設が不便だ、補助金が足りない、増税で生活が苦しい……等々の具体例を示しつつ、「地方公務員に市民感覚が欠けているから、こんな事態に陥っているのだ」と訴えてくるのです。

反対に、地方公務員を見下してくる方は、「市民感覚」という言葉を使いません。

これらの経験から、「市民感覚」という言葉を使う人≒被害者意識を持っている人、という図式が成り立つように感じています。

「市民感覚」への対処法

お決まりのフレーズである「地方公務員には市民感覚が欠けている」という主張を具体的に言い換えると、「私たちは何も悪いことをしていないのに、権利や生活を侵害されている。このことに地方公務員どもは気づいていない」という主張になるのではないか?と思っています。

重要なのは、この主張をする人は、地方公務員が市民感覚を持つことを期待しているわけではありません。

この語を使う人は、そもそも自分たちと地方公務員の間に、「加害者」「被害者」という線引きをしています。
そのため、相手に寄り添うつもりで「私たち地方公務員もこの地域で生きる一人の市民に変わりないので、市民感覚を養っていきたいです」などと言おうものなら、かえって反感を買ってしまうでしょう。
「加害者のくせに被害者ヅラするな」と受け止められてしまうわけです。

「市民感覚」という言葉を持ち出されたら、まず相手がどのような被害者意識を抱いているのかを察知し、その被害者意識が事実に基づいているのか、それとも相手方の誤解なのか、はたまた悪意が潜んでいるのか、識別することが大事なのだろうと思います。
そして、その被害者意識が、不安や怒りといった感情、あるいは具体的な行動へとどう発展していくのかを予測する。
こうした構えを持つだけで、市民感覚という言葉に振り回されにくくなるはずです。

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