「被災地の復興は、若者が中心となって担うべき」という風潮は、一体いつ生まれたのでしょうか?
少なくとも僕が入庁した十数年前には、すでに疑う余地のない「常識」として鎮座していました。
一方、自然災害からの復興の事例を見ていくうちに、この「常識」に対して次第に疑問を抱くようになりました。
実際に「若者主体」で復興に取り組もうとすると、現場では無用な諍いが生まれ非効率が発生するのが常であり、結局頓挫してしまうプロジェクトも多数ありました。
そして何より、「復興に身を捧げる」という極めて不安定な人生を歩むことが、果たして本人にとって幸せなのか――本当に自分の意志で飛び込むならまだしも、中高年世代が若者に対し「復興に携わって、地域の未来を作ってくれ」と促すことは人道的にどうなのか、疑問が絶えません。
ともすればそれは、地域の未来のために若者を差し出す、現代版の人身御供のようにすら思えてならないのです。
僕はむしろ、被災地の復興は若者よりも高齢者が中心となって進めるほうがよいと思っています。
高齢者主体で進める、独善に走らないよう若者が監視する……という現状とは反対の方法こそ、地域全体としても個々人としても幸せな道のような気がしてなりません。
未来の社会は「高齢者向け」である必要
まず大前提として、日本全土でこれからどんどん高齢化が進んでいきます。
だとすれば、復興に際して新たに地域をつくるなら、高齢者のニーズに合った設備・機能・サービスを備えることは避けて通れません。
そしてそのニーズを誰よりも把握しているのは、当然ながら高齢者自身です。たとえ若者が熱心に高齢者ニーズを勉強したとしても、当事者の希望・期待をすべてカバーするのは不可能です。
若者が頑張ってニーズを拾おうとするも、なかなか高齢者層からの合意を得られずどんどん疲弊、完成した後も「もっとああすればよかった」等と後出しで注文を付けられる……というのが典型的なパターンです。復興に限らず、こういうケースは本当によく耳にします。
このような不幸の連鎖が続くのは、若者が主体を務めようとするからです。
それなら最初から、高齢者自身が主体的にまちづくりへ携わったほうが、はるかに合理的だと思えるのです。
それなら最初から、高齢者自身が主体的にまちづくりへ携わったほうが、はるかに合理的だと思えるのです。
若者主体では合意形成が困難
地域の復興には、住民にとって痛みを伴う合意形成が避けられません。
土地利用をどうするか、生業をどう調整するか——誰かが得をして誰かが割を食う、そういう泥臭い利害調整の連続です。
こうしたタフネゴシエーションには相応の技量が求められます。
相手の感情の機微を的確に見抜いたり、刺さる言葉を選び抜く等、交渉の場でのスキルはもちろんのこと、外堀を埋めたり根回しをしたり等、事前準備のノウハウも必要です。
相手の感情の機微を的確に見抜いたり、刺さる言葉を選び抜く等、交渉の場でのスキルはもちろんのこと、外堀を埋めたり根回しをしたり等、事前準備のノウハウも必要です。
これらは座学で身につくものではなく、実践を通して習得するもの――いわば「社会人経験」そのものであり、若者が苦手とする分野ともいえるでしょう。
しかも必要なのは交渉スキルだけではありません。
地域内に長年かけて積み上げてきた人間関係という資本、いわば「信頼の貯金」が物を言う世界であり、これは若者には絶対に代替できません。
地域内に長年かけて積み上げてきた人間関係という資本、いわば「信頼の貯金」が物を言う世界であり、これは若者には絶対に代替できません。
復興の初期段階に、何か新しい取組を単発で始める程度であれば、ぽっと出の若者であっても実現可能です。
しかし中長期的な意思決定をするとなると、若者ではあまりに力不足です。
「年の功」が必要な場面が多いのです。
「年の功」が必要な場面が多いのです。
不安定な生き方を若者に強いていいのか
何より見過ごせないのが、復興に携わる若者本人の人生です。
復興に携わったところで、お金は稼げません。
それどころか私財を投げうつことが半ば当然のように求められ、じわじわと膨らんでいく赤字に日夜苛まれる……そんなケースを何度も目にしてきました。
それどころか私財を投げうつことが半ば当然のように求められ、じわじわと膨らんでいく赤字に日夜苛まれる……そんなケースを何度も目にしてきました。
仮に頑張って黒字化しようものなら、今度は「復興で儲けるとは何事か」と後ろ指を差される始末です。
要するに復興とは、ローリターンだけは確実に約束されているビジネスなのです。
一方でリスクが高いことは言うまでもありません。
このようなハイリスクローリターンな仕事に、若いうちに携わるのは、その後の人生設計を狂わせかねません。
少なくとも、子育てと両立させるのは至難の業でしょう。
子どもの学費や生活費を心配しながら、地域のために私財を溶かし続けるというのは、正直なところ悪い冗談にしか聞こえません。
子どもの学費や生活費を心配しながら、地域のために私財を溶かし続けるというのは、正直なところ悪い冗談にしか聞こえません。
手段と目的が逆転しているのでは
そもそも、誰が復興の主体となるかというのは、あくまで手段の話にすぎません。
重要なのは、若者を含めたあらゆる世代が住み続けたいと思えるような地域へと復興を遂げること、のはずです。
にもかかわらず、「復興は若者が担うべきだ」という命題ばかりがひとり歩きし、いつしか目的そのものであるかのように語られてしまっている。これはどう見ても、手段と目的が逆転しています。
にもかかわらず、「復興は若者が担うべきだ」という命題ばかりがひとり歩きし、いつしか目的そのものであるかのように語られてしまっている。これはどう見ても、手段と目的が逆転しています。
意地悪な見方をすれば、このスローガンは、既存の意思決定層——すなわち地域の高齢者たち——にとって、実に都合のよいレトリックなのではないでしょうか……?
「未来は君たち若者のものだから、復興も君たちが担うべきだ」と持ち上げておきながら、実際には責任とリスクだけを丸ごと押し付け、自分たちは安全圏から指図する側に回る。
美しい言葉の裏に、そんな構図を見てしまうのは、僕だけでしょうか……?
