「上司が無能すぎて腹立つ」――。
居酒屋の片隅からSNSのタイムラインに至るまで、この嘆きは若手地方公務員の「定番」と化しています。
20代から30代の若手社員にとって、頓珍漢な意見や判断を表明してくる上司の姿は、仕事の邪魔なだけでなく、自身の成長をも妨げる「最大の障壁」のように見えることもあるでしょう。X(旧Twitter)やNOTEなどの言論空間を眺めていると、役所には「無能な上司」しか存在しないのではないかという錯覚すら覚えます。
確かに役所は民間企業のような「選抜」が効いているわけではなく、ある程度の年齢になれば大半の職員が部下を持つことになります。そのため一定数の「無能な上司」がいてもおかしくはありません。
しかし冷静に考えてみると、もし本当に上司が悉く無能であるならば、役所組織はとうの昔に崩壊しているはずです。
それにここ数年は、ちょうど係長〜課長を務める年代が氷河期世代に差し掛かっており、入庁時のスペック(学歴など)は今の若手よりもはるかに上です。
つまり、若手地方公務員が騒ぐほどには、「無能な上司」はいないと思うのです。
では、なぜこれほどまでに「無能な上司」というレッテルが一般化しているのでしょうか。そこには、単なる能力の多寡ではない、役所組織で働く以上「仕方ない」部分が存在すると思っています。
情報格差(非対称性)
上司の意見や判断が「無能」に見えるとき、そこには多くの場合、「情報の非対称性」が存在します。同じ組織に所属していても、上司と部下は同じ景色を見ているようでいて、実は全く異なる解像度の情報を手にしています。
つまり、持っている情報が違うから、違う意見を持つし、違う判断を下すのです。
この「情報の非対称性」こそが、「上司は無能」という認識(同じく「使えない部下」という認識)を生む最大の要因だと思っています。
まず、「部下が持っている情報を、上司は持っていない」場合を考えてみます。
現場に立つ部下は、日々の業務を通じて膨大な一次情報に触れています。
上司に対して丁寧に情報共有しているつもりかもしれませんが、そもそも全てを報告することは不可能です。
特に、「非言語情報」の共有は困難です。現場の空気感、関係者の微妙な表情の変化、電話での声色などなど……こういった数値化・言語化しづらい情報こそ、往々にして意思決定において極めて重要な役割を果たします。
部下から上司への「報告・連絡・相談」のプロセスで、少なからぬ情報が切り捨てられていきます。
情報を絞ること自体は正しいことだと思います。全部ありのまま伝えるのは時間的にも労力的にも現実的ではありません。
それでも「必要な情報」をきちんと共有できていれば、判断に大きな差は生じないでしょう。
ただ、上司にとって「必要な情報」を見極めるのはなかなか難しいです。上司の判断を左右する情報までカットしてしまい、「的外れ」な判断へとミスリードしてしまうというケースは、僕だけでなく多くの人が経験あると思います。
「上司が持っている情報を、部下は持っていない」というケースも多々あります。
典型的なのは「歴史」や「経緯」、つまりは過去の情報です。
- 〇〇地域は50年前の道路拡幅の用地買収額に納得していなくて、今も行政に対して不信感を抱いている
- 誰も利用していない〇〇事業だけど、現首長の応援団である▲▲議員発案だから、首長が交代するまで止められない
- このめんどくさい業務プロセスは〇〇部長が係長時代に導入したものだから、この人が定年退職するまでは止められない
こういった類の情報は、組織に長くいればいるほど見聞きできるものなので、年長の上司は知っているが、若手の部下は知らない……というケースが多々あります。しかし、上司にとっては「常識」なので、「部下は知らない」なんてことは想定していないのです。
繰り返しになりますが、持っている情報が違えば、異なる意見・結論に至っても仕方ありません。
この前提を無視して、一方的に「上司は無能」と責め立てるのは、お門違いだと思います。
判断基準の違い
上司の判断を不可解なものにするもう一つの大きな要因は、意思決定の土台となる「判断基準」そのものの違いにあります。組織内での階層が上がるにつれ、求められる最適解は、単なる業務成果や論理的整合性だけでは測れなくなるからです。若手職員は、実務上の合理性や、「一般住民の反応」を判断の軸に据えます。
しかし、職位が上がるにつれて「特殊なステークホルダー」への「特別な配慮」を、意思決定の不可欠な要素として組み込まざるを得なくなってきます。
率直に言ってしまえば、政治家やマスコミ、あるいは声の大きい一部有力住民といった存在に対する「忖度」です。
彼ら彼女らが持つ感覚や利害関係は、往々にして世間一般の「常識」や、現場の「最適解」とは大きく乖離しています。
しかし、現在の「民主主義」という意思決定のルール上、彼ら彼女らの意向は無視できません。
ここで重要なのは、部下から見て「おかしい」と思われる上司の決断が、実は上司個人の知性の欠如から生じているのではない、という点です。むしろ上司本人も「おかしい」と自覚しているのでしょうが、立場上そう判断せざるを得ないのです。
上司は、外部からの不条理な要求や、偏った力学を計算式に組み込んだ結果、組織として最も摩擦の少ない「妥協点」を導き出しているに過ぎません。この場合、真に批判されるべきは、上司の判断能力ではなく、判断を歪ませている外部環境そのものです。
一部の偏った利害関係者の声を「正解」として扱わねばならない不条理な構造が、上司の決断を世俗的な常識から乖離させ、結果として部下の目に「無能」という形で投影されてしまうのです。
「あいつは無能」で終わらせてしまう態度こそ無能の証拠
これまで見てきたように、上司と部下の間に生じる認識のズレは、単なる能力の優劣によるものではありません。「情報の非対称性」や「立場の違いによる判断基準の乖離」といった構造的な要因が、必然的に生み出している現象なのです。僕はこのズレを悲観していません。
むしろ、この「意見・判断の違い」こそが、組織が健全に機能するための鍵になると思っています。
現場のリアルな感覚を持つ部下と、組織の歴史や外部の力学を考慮する上司。
その異なる視点や知見を持ち寄り、すり合わせていくプロセスこそが、より多角的で強固な結論へと導く「補完関係」の本質だと思います。
真に憂慮すべきは、上司との意見・判断の相違を、「上司の無能」にすぐ帰責する最近の論調です。
「自分が絶対的に正しい」と信じ込み、相手を一方的に「無能」と切り捨てて理解を拒む態度こそ、意見や判断のブラッシュアップを阻む、真の「無能」であると言わざるを得ません。
このような態度は、「地方公務員は無能!」と決めつけて役所側を全否定してくるクレーマーと、本質的に同じだと思います。
