キモオタク地方公務員(県庁職員)のブログ

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役所は日々、いろんな施策を実施していますが、堂々と「成功した」とアピールできる施策は多くありません。
マスコミからの取材や議会の質問で「施策の成果」を問われた際に、数字をいじくりまわしたり、それっぽい日本語表現を繕ったりして、半ば無理やりに答えを絞り出した経験のある人も多いと思います。

従前より、地方公務員を辞める人の多くは、「仕事にやりがいが無い」と語ってきました。
「やりがいが無い」と感じる理由の一つが、「成功体験を得られない」せいなのではないかと、僕は思っています。

特に若手職員は、SNSなどで同世代がどんどん成功を収めている姿が嫌でも目に入り、隣の芝が青く見えていくと同時に、自分の仕事に価値を見出せなくなっていくのでしょう。
「どれだけ頑張っても成果を出せないような仕事に従事するのは人生の無駄だし、自分のキャリアを閉ざすことになるのでは?」という危機感が、彼ら彼女らを転職活動に駆り立てているのではないかと思われるのです。

職員の自尊心維持のためにも、若手職員の離職防止のためにも、小さなことでもいいので成功体験を積ませることが大事なのだろうと思うのですが……役所の仕事は本当に成果を出しづらいです。

その理由の一つに、世の中の大きな流れ、いわゆる「メガトレンド」に逆らう仕事が多いことが挙げられると思います。

役所にとって「変化」≒「危機」

メガトレンドとは、辞書的には「時代の大きな流れ、趨勢」のことを指します。


本稿ではやや意味を限定して、「世代や地域にかかわらず、あらゆる人に影響を及ぼす、社会全体の大きな流れ」という意味で用います。
具体例を挙げると、少子化や地球温暖化、都市部への人口流出、デジタル化……などです。

こういったメガトレンドは、日常生活はもちろんのこと、仕事にも大きく影響します。
民間も役所も同様です。メガトレンドから逃れることはできません。

ただ、メガトレンドへの対応は、民間と行政では全く異なります。

民間企業は、メガトレンドをチャンスと捉えます。
メガトレンドにうまく乗っかって、自社の利益拡大を図ります。

一方、役所の場合、メガトレンドはピンチにほかなりません。
メガトレンドそのものを止めようとしたり、メガトレンドの影響を極小化しようと試みます。

パッと思いついた具体例をいくつか掲載します。
メガトレンド事例

だいたいのメガトレンドで、民間では「乗じる」、行政では「逆らう」スタンスを採っていると思います。
地球温暖化だけは例外で、民間も行政も「逆らう」方向です。


川下りと沢登り、大変なのはどっち?

メガトレンドに「乗じる」戦略と、メガトレンドに「逆らう」戦略。
成果が出やすいのは、もちろん前者です。
メガトレンドは、簡単には止められないからこそメガトレンドなのであり、戦略実行の難易度や費用対効果を合理的に考えると、メガトレンドには乗るしかありません。

メガトレンドに逆らう戦略を採る行政は、最初から「負け戦」に臨んでいるのだと言っても、過言ではないと思います。

もちろん、行政がメガトレンドに逆らう戦略を採るのには理由があります。
メガトレンドによって「困る人」がいるからです。

中長期的にはメガトレンドを受け入れたほうが皆幸せになれる可能性が極めて高い状況であれ、現下に困っている人がいるならメガトレンドに逆らわなければいけない……これが民主主義の宿命であり、民主主義的決定の実行者たる行政の役割です。

メガトレンドにより困る人は比較的高齢者が多いので、「メガトレンドに逆らう」という現状の行政の姿は、シルバー民主主義の産物ともいえるかもしれません。


登る澪筋は変われども、沢登りするスタンスには変わりない

メガトレンドの中身は刻一刻と変わっていきます。
しかし、「メガトレンドに逆らう」という行政の基本スタンスは、いつまでも変わらないと思います。
メガトレンドの影響を嫌う人、別の言い方をすると変化を拒み現状維持を望む人が、高齢者を中心に相当数存在するからです。

ゆえに行政は、新たなメガトレンドが登場するたびに、それをを否定し、無謀な抵抗を続けることになるでしょう。
このような行政のあり方を「頭が固い」「時代遅れ」などといって批判したり、嫌気がさして見限る(退職する)のは、それはそれで正しいと思います。

ただ、メガトレンドに逆らうことにも、間違いなくニーズが存在しています。
目に見える成果は挙げられないでしょうが、それでも少なくない住民のニーズを満たせているはず。
単なる一時凌ぎにすぎなくとも、現存するニーズを充足しているのであれば、これはこれで成果といえないでしょうか。
コストパフォーマンスは最悪だと思いますが、そもそも行政はコスパでは測れない(コスパ度外視で必要なサービスを提供する)セクションですし。

……我ながら暴論だとは思いますが、このような落とし所を見出すことで、僕は自分を納得させています。

正社員でもアルバイトでも、働いたことがあれば一度は「できない理由を考える暇があったら、どうすればできるのか考えろ」という叱咤激励を受けたことがあるでしょう。

「できない理由、禁止」という標語は社内教育用のポスターとしても販売されているようで(しかも人気上位)、どれだけ世の中に浸透しているか窺えます。


この標語は、民間企業のみならず、今や役所内でも定番です。
「無能なくせに『できない理由』を取り繕うことだけは得意」という地方公務員叩きの常套句がありますが、同じような指摘が上司から部下にも度々下されます。

「できない理由」を考えるのは時間の無駄であり、どのように実現するか具体的に方法を詰めていくかを考えていくほうが前向きで有意義だというのです。

ただ僕は、役所においてこの標語に金科玉条のごとく掲げるのは非常に危険だと思っています。
「できない理由」を考えることは非常に重要ですし、ひたすら「できる方法」を追い求めていると、単にトラブルを招くだけだと思います。

「できない理由」を考えることは生産的な営み

そもそも、何か新しいことを実施・実現するための正攻法は、「できない理由」をひとつひとつ潰していくことだと思います。
「できない理由」をしっかり考え抜いたうえで、どうすれば「できない理由」を解決できるのか具体的な方法を考えていく……これこそが正攻法であり、「できない理由」を軽視して「できる方法」だけを考えるのは、一休さんの「とんち」の現代版を作ろうとするかのような、抜け道的な手法だと思います。

「できない理由」とは、表現を変えると「課題」です。
何かを実施しようとする際に、まず「できない理由」の分析整理、つまり「課題の洗い出し」から始めることは、果たして無駄なのでしょうか?

また、ビジネス書などでは、解決すべき致命的な課題のことを「イシュー」と表現して、イシューを正確に捉えたうえで対策に移るべきだと指摘しています。
「できない理由」を考えるのは、まさに「イシューを設定する」ことに直結すると思うのです。

「できない理由」を顧みずに「できる方法」を探して実施するのは、現状存在している課題を放置することに他なりません。
いわば「臭いものに蓋」をして、目を背けるわけです。

このような物事の進め方は、柔軟で機動的な行動が許容される個人や民間企業ならまだしも、役所という敵だらけの組織体が行うにはリスクが大きすぎます。
見出した「できる方法」が奏功して何か新しい価値を実現できたとしても、課題を放置したことに対して激しい非難が寄せられるに決まっています。

もちろん、「できない理由」を放置したままで、即効性のある「できる方法」に着手するケースもたまにはあるでしょう。
しかしこれには非常にリスクの高い判断であり、それなりに責任を持てる人でないと下してはいけないと思います。

「できない理由」で論破するために

下っ端の地方公務員の職責は、「できない理由」を徹底的に考え抜き、「できない理由は聞きたくない」と唱えてくる方々をを説得することだと思います。
ただ実際のところ、この説得がうまくいっていないがために、役所内でも「できない理由、禁止」という風潮が罷り通っているのでしょう。

「できない理由」不要論者の方々の多くは、「できない理由」のことを「言い訳」だとみなしてきます。
できない理由が言い訳じみてしまうのは、2パターンあると思っています。

一つは単純に深掘りが足りないパターンです。
即座に反論できるような理由しか提示されなければ、受け手側には「言い訳」のように映ってしまい、「できない」と納得することもできなくて当然です。

「できない理由」を突き詰めていくと、お金、時間、人手、法規制、倫理、過去のしがらみ、住民感情あたりに行き着くと思います。
どのような類型に該当するのかを意識しながら現状を整理していけば、理路整然として説得力のある「できない理由」を構築できるのでは?と思っています。

もう一つは、「本当はできるけどやりたくない」ことを、「できない」と言いたいがために、無理やりこじつけているせいで、説得力が損なわれているパターンです。
文字化すると大変不誠実な姿勢なのですが、実際このような状況に陥るケースはとても多いです。

この場合でも、「やりたくない理由」を深掘りしていけば、どこかで「できない理由」との接点が見えてくるはずで、こうやって炙り出した「できない理由」を整理していくしかないと思います。

例として、住民から「A公園の草刈りをもっと頻繁にやってくれ」と要望が来たケースを考えてみます。
この場合、草刈りを増やすこと自体は不可能ではありませんが、実現するためには
  • 財政課に対して予算の増額要求
  • 草刈り業者の確保
  • 別の公園についても「草刈りを増やせ」と言われた際の対応を考える
  • A公園を地盤とする議員への事前説明(要望主がこの議員の反対勢力だったりしたら、実現してはいけないので)
  • 草刈りをしないことで恩恵を受けている人がいないかの調査(別の住民がヤギを飼っていて定期的にA公園の草を食べさせており、除草されると困る など)
などの面倒な作業が色々必要になり、実施したくないとします。

こうやって「やりたくない理由」をリストアップしていくと、まず「お金が無い」「人手が無い」という「できない理由」がすぐに見つかります。
さらにそれぞれを突き詰めていくと、もっと別の「できない理由」にも至れるはずです。


明かされざる「地道な準備」こそ「スーパー公務員」の真髄?

僕の勤務先県庁では、「ボトムアップ提案」とか「若手主導の事業」という触れ込みで始まった新規事業が、半年も経たないうちに頓挫してしまうケースが続出しています。
その理由がまさに、これまで実施してこなかった事情や背景の分析、つまり「できない理由」の検討不足です。
「どうして今まで実現できなかったのか」を冷静に分析することなく、「この方法ならできるかもしれない」という一筋の希望だけを頼りに事業化してみた結果、うまく回っていないようなのです。

彼ら彼女らは「スーパー公務員」の事例を参考に意気揚々と取り組んできているようなのですが、見事に足元を掬われています。

「スーパー公務員」の方々の成功事例が紹介される際、たいていは「とんち」みたいな斬新な手法ばかりが着目されていますが、きっとその斬新な手法を実行する前に、きちんと「できない理由」を整理して、その手法で問題ないことを確認しているだと思います。
このような地道な下準備を経ているからこそ、成功を収めているはずです。

能登半島地震から3週間近くが経過しました。

報道ベースで見聞きする限りでは、人命救助のフェーズから復旧フェーズに移行しつつあるようで、事務職員の業務負担がますます高まってきているのではないかと思います。
被災自治体の職員の方々には、心からお見舞い申し上げます。

今回の災害を機に、防災行政に興味が湧いてきた方もいるかもしれません。

災害対応は「経験の積み重ね」であり、過去の事例をもとにケーススタディするのが一番勉強になります。
内閣府などが資料をまとめており、それらを見るだけでも十分なのですが……元防災部局職員として、あまり大っぴらにはできないノウハウを紹介していきます。

閻魔帳(ブラックリスト)づくり

自治体の仕事の中には、色々な分野の著名人とタイアップするものがあります。
  • 有識者として意見を伺う
  • セミナーやシンポジウムの講師や、パネリストとして招聘する
  • 観光PRをお願いする
あたりが典型的でしょうか。

著名人の人選はなかなか難しいです(政治的にゴリ押しされることも多々あり)。
事業としてきちんと成果が出る「適任」を選ぶ必要があるとともに、メディアや住民の感情的理解を得られる人でなければいけません。
人選を誤ると易々と炎上します。いわゆる「受け」ですね。

加えて、行政に対するスタンスも重要です。
著名人の中には、行政を嫌っている人も相当数いらっしゃいます。
彼ら彼女らもビジネスなので、たとえ嫌いであっても仕事自体は受けてくれるものですが、依頼どおりに動いてくれなかったり、逆にダメ出しをしまくってきたりと、事業の進捗に支障が出かねません。
とはいえ、なかなか個々人の行政に対するスタンスなんて、事前にはわからないものです。


災害後はなぜか物申したくなるもの

大災害の発生後は、著名人の「受け」と「行政に対するスタンス」を見定めるチャンスです。

著名人の中には、大災害をチャンスと捉えて自分のことを売り込もうとする人がたくさんいます。
政治家はもちろんのこと、芸能人、学者、企業経営者、メディア関係者、その他もろもろの専門家などなど……一見関係なさそうな領域の方々も、思い思いに自説を展開します。

彼ら彼女らの主張を紐解いていくと、「行政に対するスタンス」が見えてきます。
たとえば、ひたすら行政の粗探しをして叩き続ける芸能人なんかは、完全な役所嫌いですし、役所の人的・財政的リソースを一切考慮せず理想論ばかり唱える学者なんかは、皮肉な意味での「学者肌」です。
こういった方々は、いくら知名度が高かったとしても、役所側から仕事を依頼するには不適切です。


また、彼ら彼女らの中には、真っ当な主張をして株を上げる人もいれば、突拍子もない主張をして炎上する人もいます。
自分を売り込もうなんて意図が無くとも、災害に関する何気ない発言が大炎上してしまうこともあります。

一旦炎上してしまった人は、当面は「受け」が悪くなり、迂闊にタイアップすると再度炎上しかねません。仕事を頼むのは危険すぎます。


炎上する理由は様々ですが、主張内容自体が原因であることは少なく、TPOを弁えない(タイミングが悪い)ことが多いです。
TPOを読めない人は、仕事の依頼先としては不適切です。余計なリスクを抱え込むだけです。
この意味でも、炎上してしまった人をタイアップ候補から外すのは、合理的だと思います。


「行政に対するスタンス」が敵対的である方々や、炎上して「受け」が悪くなった方々をリストアップしておくことで、今後の人選に大いに参考になります。

新型コロナ対応の際にも、このような「閻魔帳」づくりは推奨されていました。
どんな部署でも役に立つ、まさに一生ものの財産になるでしょう。


マスコミが被災自治体を叩くときの「論点」を学ぶ

「一次災害」と「二次災害」まではしっかりした定義がありますが、「三次災害」までくると人によって見解が異なります。

僕が思う「三次災害」は、大手マスコミが被災自治体の災害対応を否定的に報道して、苦情や非難が全国から殺到して業務が回らなくなる……つまり「炎上」です。

人命救助フェーズがひと段落した頃、具体的には「発災2週間後」と「発災1ヶ月後」に否定的報道のビッグウェーブが来て、炎上リスクが高まる……というのが、僕が防災部局勤務だった頃の経験知でした。
これまでの災害事例を見ていても、そこそこ当たっていると思います。

あくまでもきっかけは「大手マスコミ」、具体的にはテレビのキー局各社の報道です。地元メディアではありません。

キー局による被災自治体叩きでは、どんな災害であっても、だいたい似たような論点が取り沙汰されます。
多分、現地取材ベースではなく、キー局の内部でスポンサー等の意向を拾いながらシナリオを作っているのでしょう。
そのため、現地では深刻な課題については一切触れず、現地では特段課題になっていない論点を執拗に叩いたりします。

結果、叩かれている自治体側はもちろんのこと、被災住民にとっても疑問符が浮かぶ内容に仕上がります。
ミスリードはおろか、誤った内容を拡散されることもしばしばあります。

論点が似ている……ということは、過去の災害における論点が、次の災害でも再び取り沙汰されるということに他なりません。
いわば過去の災害が「過去問」となるのです。

どんな論点で被災自治体が叩かれているのかをリストアップする(=過去問集を作っておく)ことで、実際に災害に遭った時に非常に役立ちます。


いずれにしても、報道やSNSをしっかりチェックして、材料を集めなければいけません。
気が滅入り作業ではありますが、それでもやる価値は十分あると思います。

僕の勤務先県庁には「主任」という職位があります。
ヒラの主事と係長の中間に位置する職位です。
試験は無く、だいたい30歳前後でみんな横並びで昇進します。

一般的に「主任」といえば、ヒラ係員たちをまとめる役割だったり、係員業務の中でも比較的ヘビーな仕事を任せられたりするポジションにあたると思われますが、僕の勤務先県庁ではヒラとほぼ同じ扱いです。
「主任しか就かない席」はほとんどありませんし、主任と主事が入れ替わる(主任の後任が主事だったり、主事の後任が主任だったり)ことも日常茶飯事です。

入庁以来いわば「名ばかり」の主任たちを眺めてきて、「主任って何のためにいるんだろう?」と常々思ってきました。
そして今、僕自身が主任になり数年が経ち、ようやく主任の役割が見えてきました。

主任の役割、それは「疑う」ことだと思います。
ヒラの主事と比べて役所生活が長くて仕事に慣れている分、心にゆとりが生まれているはずです。
そのゆとりを活かして、目の前の現実に疑問を呈するのです。

「後輩」を疑う

まず真っ先に疑うべき相手は、職場の後輩です。
後輩の仕事ぶりを常に疑いの目で眺めて、腑に落ちない点があればどんどん指摘していけばいいと思います。

ただし、あくまでも「口を出す」だけです。
後輩を疑うところまでは主任にも許されていますが、後輩が間違っていると結論づけたり、後輩の言動を抑止する権限は、主任にはありません。ここまでくると上司の権能です。

後輩に対して疑義を提示して、少し足踏みさせて考えを深めさせる。
こうすることで、後輩の仕事が少なからずブラッシュアップされて組織に迷惑かけずに済むでしょうし、(迷惑に思うかもしれませんが)後後輩自身の成長にもつながるでしょう。

「上司」を疑う

上司の役割はいろいろありますが、主要な役割として「判断を下す」ことが挙げられます。
判断を下す瞬間、上司は完全なる「正しい存在」でなければいけません。

入庁当時と比べると、主任になる頃には上司との心理的距離が随分近づいて、上司の気持ちがわかるようになってきているはずです。
「正しい判断を下さねば」というプレッシャーの重さにも、少なからず勘付いていることと思います。

上司が下した判断を部下がすんなり受け入れる場合、判断が正しいか否かの責任は、全面的に上司にあります。
一方、上司の判断に対して部下がやんわりと疑問を挟み、わずかでも議論をした瞬間、部下に対しても責任が共有されます。
正しいか否かの判断過程に、部下も関わることになるからです。

このようにして部下と責任を共有できることで、気分が楽になる上司も少なくないでしょう。
上司の心理的プレッシャーを緩和するのも、ヒラ主事と比べて上司との距離が近い主任の役割だと思います。

もちろん、部下からの異論を忌避するタイプや、自分一人で判断を下すことに快感を覚えるタイプの上司もいるので、相手を見ながら必要に応じてやればいいでしょう。

「組織」を疑う

次に疑うべき相手は組織です。
常々「おかしい」「間違ってる」と感じている事柄のみならず、これまで盲目的に信用してきたことも含めて、幅広に疑ってかかればいいと思います。

重要なのは、愚痴や批判に終始するのではなく、きちんと疑問を抱くことです。
何かが「嫌だ」とか「ダメだ」とか喚くだけではなく、「なぜそうなっているのか」を徹底的に問い詰めていくのです。

主任にもなると、役所在籍年数が長くなり、過去の因縁や陰の権力者といった裏要素が見えてくるものです。
主任には、既存のルールに違和感を覚えるだけのフレッシュさと、既存のルールの一層深掘りするための基礎知識が備わっています。
これらを両立できるのは主任のうちだけでしょう。
 
奇しくも今はDXの時代です。ルールを変えることのハードルが下がっています。
「組織を疑う」ことの価値も高まっているはずです。

「住民」を疑う

正直なところ、主事と主任の間には大して能力差は無いと思います。
職位の差よりも個人差のほうが顕著でしょう。
例えば、出世コース候補の3年目主事と、主任3年目の僕を比べれば、前者のほうが圧倒的に優秀です。

ヒラ主事と主任との間で差が開くスキル、つまり役所生活が長ければ長いほど身につくスキルといえば、住民対応くらいでしょう。
より正確に言えば、攻撃的な言動を浴びせられても一定の冷静さを保てる(むしろ罵倒されればされるほど冷静に思考を回せる)技能です。

単に苦境を申し立ててくるのみならず、執拗に役所組織や職員個人を攻撃してくる住民の方々には、何らかの目的があるものです。
一方的に怒鳴ったり机を叩いたり椅子を蹴ったりしてくる住民に対して、ヒラ主事であれば、その場を収束させるだけで精一杯かもしれません。
しかし主任であるからには、住民の主張を鵜呑みにせず(もちろん話は聞きつつ)、その背後にあるカネや権力構造を探るくらいの付加価値をつけたいところです。



現状に対する不平不満を垂れ流すだけなら、ヒラ主事はもちろんのこと、非常勤職員の方々や外注先・出入りの業者さんにだって可能です。
不平不満を単に発散させるのではなく抱えたままにして、「なぜ」という方向に思考を深めてこそ、主任なのだと思います。


地方公務員の仕事には、いわゆる定量的な「ノルマ」はあまりありません。
数値設定されている仕事であっても、未達だったところでペナルティを課されるわけでもなく、せいぜい上司から怒られる程度でおしまいです。

民間企業勤務の方々は、日々ノルマを突きつけられ、達成できなかったら給料減額、下手すれば解雇されます。
そんな状況と比べると、地方公務員に課されている「数値目標達成」へのプレッシャーは相当弱いでしょう。

民間勤務の方々が「公務員は楽だ」と感じているのも、このノルマ不在が一つの原因だと思われます。
僕が出向していた民間団体でも、マイナンバーカード取得率が伸び悩んでいるというニュースに対して「どうせ目標未達でもクビ飛ばないんでしょ?お気楽な身分だよね」と冷笑されていました。

ただ、「数値目標必達」というプレッシャーが無いからといって、地方公務員の仕事が民間よりも必ずしも楽だとは思いません。
地方公務員には「負け筋を見逃してはいけない」という別種のプレッシャーがあります。

基本的に役所は敗北するもの

民主主義の下では、ある施策の成否を決めるのは住民です。
定量的な効果が出ているとか、開始時点に掲げていた数値目標をきちんと達成できたとか……こういった客観的事実はどうてもよく、全ては住民の「お気持ち」次第であり、住民が喜んで満足すれば何でも成功ですし、不満だったら失敗なのです。

価値観が多様化した(どんなマイナーな価値観でも堂々と表明できる)今という時代において、住民全員を満足させるのはもはや不可能です。
どんな施策であっても、必ず誰かから不満の声が上がります。

困ったことにマスコミや政治家は、施策に対する不満しか取り上げません。
大多数が喜んでいる施策であっても、ごく些細な不満の声を探し出して拾い上げ、それを拡張して「役所は失敗した」と喧伝します。

マスコミが連日「この施策は失敗です」と報道するのを見聞きして、住民の多くは認識を改めます。
たとえ自分が恩恵を受けているとしても、それを棚上げして「役所は失敗した」と思うのです。

ほとんどの施策は、このような経過を辿って民主主義的に「失敗」の烙印を押されます。
(以下、失敗施策扱いされることを「敗北」と表現します)

役所がどれだけ頑張ろうが、どれだけ成果を上げようが、関係ありません。
役所は大概敗北します。
そのため、最初から敗北前提に施策を展開することになります。

「負け筋探し」が職員の最重要業務

敗北を前提とする場合、被害を最小限に抑えることが至上命題です。
そのためには、いつ/誰が/どのように叩いてくるか(いわゆる「負け筋」)を網羅的に予測して、それぞれの対処方法を考える必要が出てきます。

こう考えると、定量的目標の未達成も、あくまでも「負け筋」のひとつと位置付けられます。
「いかに達成するか」のみならず、「達成できなかった場合どうするか」も真剣に考えるわけです。

具体的には、
  • 類似した施策で、過去どのような叩かれ方をしているかを徹底的に調べる
  • 国や他自治体、他部署の施策が波及してこないか考える
  • 住民の声やインターネット上の反応を常時伺って、リアルタイムの動向を把握する

こういった方法で「負け筋」を探して、予算・人員・権限の範囲内で対策を練っていきます。
往年の名コピペ「ラグで詰まないか?」を思い出します。


役所的には、たとえ叩かれても想定・対策の範囲内に収まっていれば、それほど問題にはなりません。
しかし、想定外の「負け筋」で叩かれてしまったら、紛れもなく失敗と見なされます。

あらかじめ想定していた「負け筋」であれば叩かれてもすぐに対処できますが、想定外のケースだとそうはいきません。
往々にして時間が足りませんし、対処に必要なモノやデータがもう手に入らないケースも多いからです。
結果的に対処が遅れたり不十分だったりして、さらなる批判を招きます。

最終的にうまく収められたとしても、関係者はものすごく怒られます。
さらには人事評価も下がるでしょう。
「負け筋潰し」はリスク管理の一環であり、地方公務員にとって必要不可欠の能力です。
想定外の事態を引き起こしてしまうと、この能力が不足していると見なされてしまうわけです。


民間企業でも同じように、いろいろなケースを想定してリスク管理をしているでしょう。
ただ民間企業であればコストパフォーマンスを考慮して、利益に影響してこない微小なリスクであれば捨象するでしょうが、役所ではどんなわずかなリスクでも真剣に検討します。
役所はとにかく「想定外」を許さないというスタンスです。

終わりないプレッシャー

「網羅的に負け筋を探さなければいけない」ということは、言い換えると「想定外の負け筋は許されない」というプレッシャーを課されることでもあります。
民間企業における「定量的ノルマ」には及ばないのかもしれませんが、これはこれで結構しんどいプレッシャーだと思うのです。
 
定量的なノルマには終わりがあります。目標値を超える実績を出せばいいです。
しかし、「負け筋潰し」には終わりがありません。
「事実は小説よりも奇なり」ということわざの通り、現実は何が起こるか分かりません。
全ての事象が「負け筋」になり得ます。
地方公務員は、一生ずっとこのプレッシャーの下で生きるしかないのです。


真面目で優秀な職員、つまり「負け筋」をたくさん見つけられる職員ほど、不安をたくさん抱えたまま仕事をすることになりますし、日々「もっと他にも負け筋があるのでは?」と疑心暗鬼に襲われることになります。

日々ノルマ追われる人生と、無限の不安に苛まれる人生。
お互いを蔑み合うのではなく、「みんな違ってみんなしんどい」という友愛の念を持ちたいものです。

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