キモオタク地方公務員(県庁職員)のブログ

地方公務員の人生満足度アップを目指しています。地方公務員志望者向けの記事は、カテゴリ「公務員になるまで」にまとめています。

タグ:読書メモ

この記事のタイトル、最初は「四月病の若手地方公務員向けブックリスト」にしようと思っていたのですが、最近は「四月病」というと環境の変化で体調を崩すことを指すんですね。

僕が就職したての頃は、四月病といえば「新生活のワクワク感のあまりやたらと意識が高くなり新しいことを始め出す」という意味でした。
難しい本を大量に買い揃えたり、通信講座を始めてみたり、楽器を買ってみたり。
今やこういう傾向は無くなってしまったのでしょうか……?

とはいえ、新生活デビューがうまくいってモチベーションが高まっている人もきっといるはず。
そういう人向けに、おすすめ書籍を紹介していきます。

俗にいう「公務員本」はあえて取り上げません。
若いうちこそ、役所内でしか役立たない実践的知識よりも、仕事のみならずプライベートでも役立つであろう基礎的・普遍的知識を得てほしいからです。


※Amazonのリンクを貼っておきますが、広告ではありません。

文章に対するスタンスを切り替える






学生時代と社畜時代では、文章に対する責任分担が激変します。

学生時代だと、文章を理解できないのは完全に読み手側の責任です。
「理解できないのは、読み手の頭が悪いから」と一蹴されます。

しかし社畜になると、今後は完全に書き手側に責任が課されます。
「理解できないのは、書き手側の配慮が足りないから」なのです。


地方公務員という仕事は、本当に幅広い層の方々と接します。
中には著しく読解力の低い人もいて、そういう方々でも理解できる文章を書かなければいけません。

そのためにはまず、「読み書き」という行為を徹底的に見直す必要があります。
文章術を身につけるのも重要なのですが、テクニックを磨く前に基礎からみっちりやり直すほうがいいと思います。

『14歳からの読解力教室』のほうは、地方公務員にとっては無意識レベルで実践できている内容で、新たな学びは少ないと思います。
ただ、無意識で余裕でこなせていることを意識化して、「できない人は何ができないのか」を理解することに意味があります。

『大人のための国語ゼミ』のほうは、地方公務員試験を突破したレベルの人にぴったりの難易度だと思います。ぜひチャレンジしてみてください。

自己責任論への有力反論を知っておく

実力も運のうち 能力主義は正義か?
マイケル サンデル
早川書房
2021-04-14



一年半ほど前に、自己責任論に関する記事を書きました。
あくまで肌感覚ですが、当時よりも今のほうが、自己責任論が幅を利かせている気がしています。

行政が担っている再分配機能は、自己責任論からすれば勝者からの強制的収奪&敗者への不当利益供与であり、到底許されません。
このような視点で行政批判を展開する人も多いです。 

逆にいえば、地方公務員は、(少なくとも仕事中は)アンチ自己責任論の立場でいる必要があります。
そのため、自己責任論に対する反論を知っておかないと、自己責任論者からの攻撃に耐えられませんし、行政や地方公務員の存在に疑問を覚えてしまい、仕事に対し余計なストレスを感じてしまうでしょう。

特に地方公務員になったばかりの頃は、「自分は公務員試験を突破した人間なんだ」という優位感を抱きやすく、自己責任論に偏りがちです。
自分を戒めるためにも一読を勧めます。

誰しもに染み付いている「差別感情」を紐解く


被差別部落認識の歴史: 異化と同化の間 (岩波現代文庫 学術 430)
黒川 みどり
岩波書店
2021-02-18


本書を推す理由は二つあります。

ひとつは、部落差別(同和問題)に関する正しい知識が、地方公務員家業には欠かせないからです。

地方公務員という職業は、どんな部署であれ何らかの形で同和問題と関わります。
具体例を挙げるのは避けますが、本当に思いもかけないところで関係してきます。

今となっては、普段の生活で同和問題を認識する機会もかなり少なくなってきていると思います。
しかし、地方公務員になってしまったからには、現在進行形の問題として認識しなければいけませんし、それなりの予備知識が必要です。
「昔と比べて今は随分改善された」で済ませるのではなく、酷かった時代をしっかり学び、問題の全容を把握してくことが重要です。

もうひとつの理由は、本書で説明されている「日本人の差別感情の実態」が、部落差別以外の差別問題にも通じているからです。

日本では今も差別感情が渦巻いています。
インターネットをちょっと見れば差別的発言がそこらじゅうに散乱していますし、地方公務員の仕事でも多くの差別的言動に接します。

差別を受けて困っている方々の救済も役所の仕事です。
事象として生じている差別的言動に細心の注意を払うのみならず、その大元に煮えたぎっている「差別感情」を紐解いていくことも、地方公務員稼業に必要です。

本書では、民衆がいかに部落差別を堅持したがり、メディアや政治がいかに民衆の差別感情を利用してきたかを、豊富な事例をもとに説明していきます。
事例の多くは戦前の話なのですが、不思議なことにどことなく見覚えのある話ばかりなんですよね。
今も昔も、差別感情のあり方は多分ほぼ変わっていないのでしょう。

つまるところ、部落差別における差別感情のあり方を学ぶことで、他の差別における差別感情の様相を窺い知る手がかりになると思うのです。


典型的な行政批判ロジックを予習しておく

失敗の本質
野中 郁次郎
ダイヤモンド社
2013-08-02


旧日本軍を分析した超有名な一冊。数多のビジネス書のネタ本でもあります。
誰もが一読すべき一冊だと思いますが、地方公務員の場合は読んでいないと実務に支障が出かねません。
役所叩きの論拠として頻繁に引用されており、普段の住民対応業務でも同書の内容がよく引用されるからです。

特に、具体的な苦情を訴えるわけではなく一般論として役所批判・公務員批判をしてくる方々は、約7割(筆者体感)が同書を引用してきます。
こういった方々にとっては、「役所≒旧日本軍」であり、旧日本軍の欠点がそのまま現在の行政組織にも残存していると考えています。
そのため、「公務員は同書を読んでいて当たり前」という感覚の方が多く、「戦力の逐次投入」や「自己革新」のような本書のキーワードに対して職員が反応してこなかったら、それだけで「公務員なのに読んでいないのか!また旧日本軍の過ちを繰り返す気か!」と怒られます。

実際のところ、同書で取り上げられている旧日本軍の実態は、現在の役所とかなり似通っています。
彼ら彼女らの批判内容も的外れではありません。
外部から指摘されて気づく前にちゃんと読み込んで、自戒しておきましょう

「出世する人」特有の所作を身につける




一見真逆のように思われるコンサルタントと公務員ですが、実際やっている作業は「調べて資料作成して説明する」ことがベースであり、案外似ています。
似ているからこそ中央省庁はどんどん仕事をコンサルに外注し、官僚の転職先にもコンサルが多いのでしょう。
地方公務員の場合も、本庁勤務であれば「調べて資料作成して説明」の日々を過ごしている人が多いです。

コンサルタントの仕事術を紹介する本は他にも多数出版されておりますが、その中でも本書を推すのは、「仕事ができる」と評されている地方公務員の多くが、本書で紹介されている「思考」と「作法」をかなり実践しているからです。

役所には、俗にいう「スーパー公務員」のような輝かしい実績を持っていなくとも、周囲から「仕事ができる」「頼りになる」などの高評価を得ている職員が存在します。

こういった方々と他の凡百の職員のどこが違うのか、周囲は(もしかしたら本人も)よく理解していませんが、それでも「違う」のは間違いありません。
本書では、高評価を得ている職員が持つ「違い」がどういう要素で生じているのか、かなり広範にカバーしているように思います。

これから出世したい人はもちろん、成果を上げるためなら多少の苦労は厭わないというモチベーションのある方は、一読を勧めます。


前々から「公務員or民間のどっちが向いているか」を判定するフローチャートみたいなものを作ってみたいと思っており、最近はよく就職対策本を読んでいます。

たびたび触れているとおり、僕は民間就活で惨敗して地方公務員に逃げ込んだタイプの人間です。
そのため就職対策本を見かけるたびに当時の恐怖が蘇ってきていたのですが、最近になってようやくトラウマを克服しつつあるのか、手に取ることができるようになりました。

今回紹介するのも広義の就職対策本で、公務員試験にチャレンジする本人「以外」を対象にした公務員試験対策本というユニークな位置付けの一冊です。

「公務員になる」と決断した後のプロセスではとても有益

現役の予備校講師の方が著者であり、公務員試験対策の部分はおおむね当たっていると思います。
特に第5章の人物試験対策のパートは、エントリーシートに書くネタの調達方法から面接本番対策まで、幅広く基本事項が紹介されていて、ものすごく参考になります。
僕が就職活動をしていた頃は、こういう基本的事柄を知らないままに面接に臨んで玉砕していたんですよね……

タイトルに「親の本」と冠している本書ではありますが、公務員試験対策に伴走する役割を担う人であれば、教師であれ先輩であれリクルーターであれ、どんな立場の人にも役立つでしょう。


一方、「公務員をすすめる」という観点、つまり「役所は良い就職先だ」という前提に立っているからなのか、公務員の魅力を誇張しすぎに思われます。

例えば、地方公務員の平均給与月額や平均年収の例として、東京都庁のデータを用いている点。
東京都庁は、全国で最も高い20%の地域手当が支給され、給料(基本給)や期末勤勉手当(ボーナス)、時間外勤務手当(残業代)などが田舎自治体よりも20%高いです。

この圧倒的地域手当のために、東京都庁の平均給与月額や平均年収は、全国平均よりもかなり高いです。
しかし本書では、地域手当加算に一切言及することなく、東京都庁のデータを用いています。
現役地方公務員(特に田舎民)がこの部分を読んだら、僕でなくとも違和感を抱くでしょう。
「アニメ映画の標準的興行収入」として「鬼滅の刃 無限列車編」のデータを提示されてるかのような……

また、「承認された残業代はすべて支払われます」と断言している部分にも違和感があります。
この表現、裏を返せば「残業したところで『承認』されなければ残業代は支払われない」ということにほかならず、これは間違いありません。
ただ、一旦承認された残業であったとしても、予算制約のために支給されないケースがままあるのが現実であり、この記述は誇大に思えてしまいます。

「親からすすめられて」公務員になることの危うさ

本書のコンセプトとは逆行してしまいますが、僕は個人的に、親から勧められて地方公務員を選択するのは悪手だと思っています。
地方公務員という職業は、「どうしてなりたいのか」を徹底的に自分で考えて、自分なりに納得できる理由を見出した上で選択肢すべき職業であり、「親から勧められてなんとなく良さそうだから」という軽い理由で選択してしまうと、後々苦しむと思うからです。

地方公務員として働いていると、いずれ必ず「民間のほうがよかったかも……」という迷いが生じるものです。
民間勤務の友人知人と自分を比較したり、役所叩き・公務員叩きを食らいすぎて気分が萎えたり、民主主義の都合で理不尽な仕事をやらされたりすると、かつての決断を呪いたくなってきます。

こうなったとき、自分が地方公務員を選択した理由、つまりは職業選択にあたっての価値観がはっきりしていれば、冷静に状況を考察して判断を下せます。
続けるにしろ辞めるにしろ、判断基準が明確なわけです。


一方、「親に勧められたから」みたいな理由で深く考えずに地方公務員になってしまうと、職業選択の価値観がうまく確立できません。
そのため、苦境に陥ったときに依るべき判断基準がなく、ゼロから悩む必要があるでしょう。
もちろん、親から勧められた後にしっかり自分で考え抜けば問題ないのですが…… 

地方公務員という職業や従業者の特徴として、長年たくさんの論者が様々な性質を取り上げているところですが、弊ブログでは「他律性」を一押ししています。



他律的ということは、つまるところ自律していないわけです。
「他律的である」とはどういうことなのか、他律的な生き方のデメリットはどういうものかを調べるために、僕は何冊か「自律」に関する本を読みました。

その中で一番参考になったのが、『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』です。

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ
リチャード フラスト
新曜社
1999-06-10



本書では、自律のさらに上にある「内発的動機づけ」という概念を取り上げています。
この「内発的動機づけ」が特に地方公務員には決定的に欠落していて、地方公務員の人生満足度を損なっている大きな原因の一つだと思っています。


内発的動機づけ

内発的動機づけとは、ある事柄そのものを「やってみたい」という気持ちが内面から湧き上がってきている状態です。
周囲から強制されたり命令されたためではなく、何らかの見返りや目的を実現するための手段としてでもなく、ただ単にその事柄自体に興味関心があって「やりたい」と思っている状態を指します。
(強制や命令、または報酬のために活動する場合は、「統制的に動機付けられている」と表現されています。)

内発的に動機づけられた状態で活動には、様々なメリットがあります。
本書で特に強調されているのは、内発的に動機づけられた活動そのものが幸福の源泉である点です。


私は、内発的動機づけの経験それ自体に価値があると信じている。バラの香りをかぐこと、ジグソーパズルに熱中すること、日差しが雲にきらめくのをしみじみ眺めること、ワクワクしながら山頂にたどり着くこと。これらの体験を正当化するために何かを生み出す必要はない。そのような経験のない人生は人生でないとさえ言えるかもしれない。
(エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト著『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』新曜社、1999 p.61)


内発的に動機づけられた人生を歩むためには、2つの要素が必要だと論じられています。
ひとつは有能感、「自分にもできるはずだ」「自分の行動が結果を左右させられる」という認識です。


「できる」という感覚が、内発的動機づけと外発的動機づけの両方にとって重要である。行動がボーナスや昇進のような外発的結果を得るための手段であったとしても、あるいは、活動を楽しむ感覚や達成感のような内発的結果を得るためのものであったとしても、望む結果を達成するための活動を十分にこなせるという感覚を持つ必要がある。(中略)内発的動機づけがもたらす「報酬」は、楽しさと達成の感覚であり、それは、人が自由に活動をするとき自然に生じる。したがって、その仕事をこなす力があるという感覚は、内発的な満足の重要な側面である。上手くこなせるという感覚それ自体が人に満足感をもたらす。(同上p.86-87)


もうひとつは自律性、「自由で自発的に行動する」「あるがままの自己と一致した行動をする」ということです。


人は自己の世界と自分を取り巻く世界とかかわるなかで有能感を発達させると老時に、それをより自律的に行えるとき、いっそう効果的にふるまえるようになり、より大きな満足感がもたらされる。したがって、有能感を得るだけでは十分とは言えない。有能なチェスのコマにすぎないなら、つまり、活動に対して有能であるが自らの意思で自己決定できると心から感じられないならば、いくらそれがうまくできても、内発的動機づけを高めることはないし、満足感も生まれない。(同上p.94-95)

内発的動機つぶしに定評のある役所組織

つまるところ、有能感と自律性を涵養し、内発的に動機づけられた活動を増やしていけば、幸せになれるということです。非常にシンプルな図式です。

しかし、地方公務員はこれを全然実現できていません。
有能感も自律性もボロボロであり、内発的に動機づけられる前提条件が満たされていません。

役所の仕事は基本的に減点方式で評価されます。
何をしても必ず誰かが不平不満を述べて、その一声のために減点され、「失策」の烙印を押されます。
地方公務員は常に「失敗しやがって」と叩かれる運命にあり、とうてい有能感を持てる状況にはありません。

民主主義体制の下では、地方公務員は「決められたことを粛々と実行する」だけの存在で、まさに先ほど引用した箇所でいう「有能なチェスのコマ」であることを求められます。
自律性が育まれるわけがありません。

僕の勤務する役所では、毎年9月議会の頃になると、「今年も順調に新人の目が死んできたな」という会話が繰り広げられます。
これはまさに、役所で働く過程で有能感と自律性を失い、内発的動機づけが消失した結果なのではないかと思っています。

まずは自分のコントロールから

書名のとおり、本書は「いかに他者の内発的動機づけを活性化させるか」という観点で書かれており、具体的な方策にも触れられています。
自分一人でできる対策としては、感情と行動を自ら調整することが挙げられています。

感情の調整とは、出来事をどう解釈するかを熟考することです。


 
脅威であると解釈しなければ、すなわち自分の自我をそれによって脅かすことをしなければ、何者も自我に影響を与えない。もちろん、苦痛を引き起こすようなものは存在するし、意図的な侮辱を脅威と解釈しないのはむずかしいが、しかし、それにもかかわらず、もっとうまく刺激を脅威的であると解釈しないでいられるのである。たとえば、侮辱されたとしても、拒否される、捨てられる、解雇されるなどの現実的な結果が何も起こっていないのならば、それが多少いたむものであっても、侮辱を話し手の攻撃性として理解するし、それほど脅威を受けなくてすむ。刺激を異なって解釈することを学ぶことで、自分の感情をより効果的にマネージすることができるのである。(同上p.259)



行動の調整とは、ある感情を感じたときに衝動的に動くのではなく、柔軟に動くことです。


感情には、ある行動傾向が組み込まれており、進化の歴史における最初の時点からの遺物であることは疑いない。(中略)しかし、人は衝動を抑制し、どのように行動するかを決定する能力ももっている。自律的になるには、感情が喚起されたときに行動を調整するための、自己に統合された調整過程を形成する必要がある。そうすることで、起こったとき、いやな気持ちになったとき、喜んだときにどう行動するかを、ほんとうに選択することができるだろう。(同上p.260)


要するに、
  • 何事もあまり悲観的な受け止め方をしないようにしつつ
  • 衝動的な言動を慎み一呼吸置いてから発言・行動する

というプロセスを踏むことが、対策になるのです。

地方公務員の仕事には、感情を乱してくる出来事がつきものです。
こういった機会に感情と行動を調整する訓練を積むことが、内発的動機づけの蘇生につながるとも言えるでしょう。

内発的に動機づけられた状態で仕事ができれば、きっと人生は豊かになるでしょう。
ただ先述したとおり、地方公務員という仕事は、有能感と自律性がどうしても損なわれます。
個人の努力である程度は緩和できたとしても、根本的解決には至りません。

そのため僕は、仕事面で内発的動機づけを追求するのと同じく、仕事以外で内発的動機ベースで打ち込めるもの……つまり趣味をしっかり持つことも重要だと思っています。

「やりたい」と思えることなら何でもいいです。
「やりたい」という気持ちが何より重要なのです。

久々に本を衝動買いしました。


公務員男性の服 普通の服で好印象・信頼・清潔感は出せる
古橋香織
ぎょうせい
2021-11-23


タイトルを一目見た瞬間に「これ絶対面白いやつだ」と確信しました。

公務員関係の本って、タイトルがふんわりしたものが多いです。
よく言えば包括的、悪く言えば総花的というか……まるで自治体総合戦略のキャッチフレーズみたいな印象があります。

一方で本書は明らかにワンイシューです。
しかも公務員男性の服装といえば、「クレームを避けるべく地味に徹しましょう」という定説が確立しており、今更議論する余地は無さそうに思われます。
僕がこのテーマでブログ記事を書くとしたら、多分2,000字に届かないと思います。

こんなにニッチな、しかも定説が確立しているテーマで、どうやって書籍1冊分も中身を膨らませるのだろう?
期待が溢れるあまり、すぐに購入してしまいました。

ちなみに、僕のファッション知識は10年前で止まっています。
大学デビューすべく脱オタクファッションガイド2ちゃんねるのファッション板で勉強して以来、アップデートされていません。
(勉強方法がおかしい点は一旦スルーで……)

  • チェックシャツやめて無地の白シャツに
  • ジーンズをやめてチノパンに
  • レザースニーカーを履く
この辺が鉄板だった記憶があります。

無難≠ダサい

本書の中身は基礎基本に徹しています。
ファッション知識に乏しい僕ですら、見聞きしたことのある事柄ばかりです。

とはいえ何事も「基本=簡単」というわけではなく、僕を含めて実践できていない人が大勢います。

情報としては知っていても、それを実践できるほど具体的に理解できていないか、実践するほどにモチベーションが湧いてこないのか、外的要因により実践したくてもできないのか……理由は何であれ、ファッションが基本すら守れていない地方公務員男性が大勢いるのは事実です。

基礎力が問われる「無難」スタイル


地方公務員の服装がダサい最大の原因は、住民の目だと思います。

地方公務員は、普通にスーツを着ているだけでも「調子に乗るな」と言われる職業です。
(20代前半の頃、よく高齢の方から言われました)
身に付けるものは何であれ配慮しないと、すぐにトラブルになります。

住民から打たれ続けた結果、アラサーになる頃にはほぼ全員が「無難な服装をしなければいけない」と刷り込まれます。

そしてこの年代になると、外見に絶望的なほどに格差が生じます。
「無難だけどおしゃれな人」がいる一方、僕みたいに「ただダサい人」が発生するのです。

「無難な格好をしよう」という趣旨は全員共通なのに、どうして仕上がりに格差が生じるのか。
これは確実にファッション基礎力の差です。

ファッション強者は「無難だけどおしゃれ」に仕上げられますが、僕みたいな無知な人間は「無難」と「ダサい」の区別がつかず、うまくまとめられないのです。

地方公務員男性に密着している、タイトルに偽りなし

本書は僕みたいなファッション弱者にも理解できるレベルまで噛み砕いて説明してくれるので、「無難だけどダサくない」というゴールがどんなものなのかがわかります。

かつ本書のすごいところは、実際に改善してみる意欲を湧かせてくれるところです。
本文中の至るところで地方公務員男性の境遇とメンタルが徹底的に観察・分析されているおかげで、結論に説得力があります。
ベースとなる「地方公務員男性の現状」に完全同意できるために、論理展開にも結論にも納得できるのです。

何よりも本書は、ファッションという切り口で役所を分析するという観点がとにかく面白いです。
地方公務員あるあるネタをファッションのボキャブラリーで再構築するのは、役所実務とファッションの両方を知る著者ならではの技だと思います。

最後の部署別鉄板スタイルは声を出して笑いました。
特に「農業政策課はスニーカー履き」「福祉課はグレーのカーディガン」が解釈一致すぎてたまりません。

もし本書の女性編が出たら、きっと買ってしまうと思います。読み物として絶対に面白い。

着用時間が長いんだからお金をかけてもいいのでは?

「仕事道具にお金をかけるのはもったいない」と考えている方も多いでしょう。

僕は常々「モノの時間単価」を考えるようにしていて、使用時間の長いものは何であれこだわったほうが人生トータルで豊かになると思っています。

職場で過ごす時間は、残念ながら人生の中でも結構長いです。
そのため僕は職場で使うガジェット類には惜しまず投資しています。

仕事着も同様です。
否が応でも長時間着なければいけないので、何回着られるのか不確定な私服よりも投資効率は高いはず。

ガジェット類と比べるとスーツは高価なので、これまでは躊躇してきましたが、本書を読んで投資意欲が湧いてきました。
来シーズン前くらいにオーダースーツに挑戦してみようかと思っています。

根が真面目なのかストイックなのか、地方公務員は「自己責任論」を好むタイプが多いと思っています。
しかもその多くは無自覚です。
 
地方公務員の多くは、「ある人の失敗の責任は、その人が全面的に負うべきだ」という自己責任論の考え方を、あたかも常識であるかのように、深く考えずに受容しているように思います。

僕はこの傾向を良く思っていません。
いかなる思想信条を持とうが自由ですが、自己責任に関してはよくよく考えてから持説を持つ必要があると思っています。

気持ちはわかる

地方公務員が自己責任論に傾倒したくなるのは、ある意味当然だと思います。

地方公務員という仕事では、「自分の責任を果たさない人」と頻繁に接触します。
役所の仕事の中には、こういう人たちの尻拭い的なものが結構あります。
具体例は挙げませんが、地方公務員なら誰もがきっと思い当たるケースがあるはずです。

役所は「自分の責任を果たさない人」の責任を肩代わりさせられ、当人に代わって汚れ仕事をやらされます。
当人は悪びれる様子もなく飄々としており、時には自分のことは棚に上げて「ちゃんと責任を果たせよ!」と役所を叩いてきます。

こういう仕打ちを日々受けているため、地方公務員が「自分の責任を果たさない人」に対して腹が立つのは当たり前です。
公僕という立場からすれば、「自分の責任をしっかり果たさない奴の尻拭いのために、貴重な税金が使われるのはおかしい」という義憤を感じるべきだとも言えるでしょう。

そもそも「自己責任」を切り分けられるのか?

自己責任論の一歩手前である「自分に課せられた責任はきっちり果たすべき」という信念は、大多数の人が受容できる「常識」の一部だと思います。

ただし、ここからさらに一歩進んで、「自分の失敗の責任は、自分で負うべきだ」「自分の責任を果たせない奴はダメだ」という本格的自己責任論に踏み込んでしまうと、途端に一般化できなくなります。

そもそも責任というものは、自己責任とそれ以外の外的要因(環境要因や運)とを区分するのが、非常に困難です。
一般論を離れて個別具体的なケースをイメージしてみると、この性質が良くわかると思います。
 

例えば、僕が結婚できないのは、自己責任なのでしょうか?
読者の99%は「考えるまでもなく自己責任だろ……」と思うでしょうし、僕自身も自己責任だと思います。

僕が結婚できないのは
  • 親密な対人関係を築き上げる鍛錬を怠ってきたため、対人スキルが低い
  • お金と時間をケチって、まともに婚活をしていない
このあたりが主な理由であり、どちらも自分のせいです。

ただ冷静に考えてみると、
  • 男性比率の高い職場ばかり配属させられている
  • 新型コロナのせいでそもそも婚活できる情勢ではない
  • イケメンとして生を授かれなかった
という外的要因も絡んできます。


今や当たり前に使われている「自己責任」という概念は、実は範囲が非常に曖昧です。
「どこまでが自己責任か」という境界線はケースバイケースですし、特定のケースにおいても、解釈は人それぞれ分かれます。正解は簡単には見出せません。

地方公務員という仕事は、先述したとおり、「自分の責任を果たさない人」と頻繁に関わります。
ただ実際のところ、責任を果たさない背景を個人ごとに詳しく探求していったら、本当は自分のせいではなく外的要因のせい、環境要因や不運のせいであると判明するケースもあるでしょう。
そして、外的要因のせいで苦しんでいる人を救済するのは、紛れもなく行政の役割です。

自己責任論を盲信し、「自分の責任を果たせない奴はダメだ」という一般論を振り回すと、実際は外的要因のせいで苦しんでいる人たちをも切り捨ててしまうことになりかねません。

「自己責任を果たしていない人」たちを十把一絡げに「ダメな奴ら」と断じてしまいがちなのが最近のトレンドではありますが、実はこれは非常に危険な振る舞いです。
特に「困窮者の救済」という使命を帯びている地方公務員までもがこの思想に染まってしまうと、セーフティネットが危うくなってしまうのです。

無自覚でいるのが一番まずい

自己責任論の是非に関しては、今のところ答えはありません。
そのため、各自がしっかり考えて、自分なりの思想を持つことが重要だと思います。
インフルエンサーの意見を鵜呑みにするのなんかは論外です。 

加えて、どれだけ緻密な思想を組み上げたとしても「自己責任論の一般化」はそもそも困難だという認識も、併せて重要だと思います。
責任の所在はあくまでもケースバイケースであり、同じような事案であっても、自己責任と外的要因の割合は全然違ってくるのです。

 

実力も運のうち 能力主義は正義か?
マイケル サンデル
早川書房
2021-04-14







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